教学用語
以い信しん代だい慧えとは
以信代慧は、「信を以もって慧えに代かう」と訓よみます。これは信の一念をもってあらゆる智ち慧えの修行に代えるということで、そこに仏法の一切の修行と功く徳どくが具そなわることを明かしています。
戒かい定じょう慧えの三学
仏教は、八万法蔵と言われるように、その法門は実に深く、また多た岐きにわたります。小乗教ではこれを四し諦たいや十じゅう二に因いん縁ねんの法に約して説き、大乗教においては布ふ施せ・持じ戒かい・忍にん辱にく・精しょう進じん・禅ぜん定じょう・智慧の六ろく波は羅ら蜜みつの修行に約して説いています。しかし、これらは、戒・定・慧の三学にすべて集約されます。
「戒」とは、衆生が三悪道へ堕おちないように、身しん・口く・意いの三さん業ごうの非を防ぎ、悪を止める教え(防非止悪)をいい、「定」とは、心の散乱を防ぎ、正しい道に向かわせる精神統一の法をいい、「慧」とは、煩ぼん悩のうを断じて迷めい妄もうの心を破す仏道の智慧をいいます。
仏教の修行では、この三学を体得しなければならないとされますが、機根の低い末法の凡ぼん夫ぷの智慧では、その内容を修得し、すべてに通達することは不可能です。ゆえに日蓮大聖人は『四信五品抄』に、
「五品の初・二・三品には、仏正しく戒かい定じょうの二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪たへざれば信を以て慧に代ふ」(御書一一一二頁)
と、末法においては三学のうち戒・定の二法を制止してただ慧の修行のみに限られるのですが、その智慧を得ることこそ非常に困難なため、信をもって慧の修行に代えると御教示です。
「以信代慧」の法門の依拠
「以信代慧」の法門の依拠は、法華経の『分ふん別べつ功く徳どく品ほん第十七』にあります。
末法における法華経の修行については、法華経二十八品中、迹しゃく門もん流る通つう分ぶんと本門流通分とに示されていますが、これは一いち往おうの義であり、再往は本門正宗分(『寿じゅ量りょう品第十六』とその前後半品ずつの一いっ品ぽん二に半はん)のすぐあと、即すなわち『分別功徳品第十七』の後半に説かれる修行が重要となります。
ここには本門の修行を、段階的に在ざい世せの衆生の信心に約して四種に分別した「現在の四信」と、滅めつ後ごの衆生の修行に約して五種に分別した「滅後の五品」が説かれています。
まず現在の四信とは、一いち念ねん信しん解げ・略りゃく解げ言ごん趣しゅ・広こう為い他た説せつ・深じん信しん観かん成じょうをいいます。第一の一念信解とは、法華経の教えを聞き、わずかな一念の心に信解を起こす位。二の略解言趣とは、略言趣を解すということで、法華経の意義がほぼ理解できる位。三に広為他説とは、広く他人の為ために説く位。四に深信観成とは、心に深く法華経の理を悟さとり、中ちゅう道どう実じっ相そうの観心を成ずる位です。これら四つは、すべて信を根本として修行を成就することから「四信」といいます。
次に滅後の五品とは、随ずい喜き品・読どく誦じゅ品・説せっ法ぽう品・兼けん行ぎょう六ろく度ど品・正しょう行ぎょう六度品をいいます。初めの随喜品とは、妙法を聞いて随喜の心を起こす位。二の読誦品とは法華経を受持し読誦する位。三の説法品とは、自行に加えて化他けたのために説法する位。四の兼行六度品とは、前三品に兼かねて六度(六波羅密の修行)を行ずる位。五の正行六度品とは、正しく六度を行ずる位です。
これら現在の四信と滅後の五品とを相対すれば、一念信解が随喜品と読誦品に当たり、略解言趣が説法品に当たり、広為他説が兼行六度品に当たり、深信観成が正行六度品に当たります。
この五品のうち、随喜品から説法品までの前三品の位の衆生は、機根が低いために戒・定の修行を止め、智慧の修行のみをしなければなりません。しかし、末法の凡夫は、この智慧の修行にも堪えられないので、大聖人は信をもって智慧に代えるよう説かれたのです。
信の一字の修行
天台では、現在の四信と滅後の五品を六ろく即そく(理り即そく・名みょう字じ即・観かん行ぎょう即・相そう似じ即・分ふん真じん即・究く竟きょう即)に配当し、一念信解を六即中の相似即、あるいは観行五品の初品の位(滅後の五品を観行即とする)、乃至ないし、名字即の位に当たると説いています。しかし、大聖人はこのような天台における種々の解釈を用いられず、
「信の一字を詮せんと為なす(中略)信は慧の因、名字即の位なり」(同)
と、末法の信心修行は名字即(正法を聞き信受する位)を基本とすると決判されました。それは「信の一字」「名字即」に、仏法の根本の功徳と修行が具わると共に、末法の修行の正意が存するからです。
末法における修行は、在世および正法・像法時代における釈しゃく尊そんの教えとは異なり、信を根本とする修行が肝かん要ようとなります。それは末法本ほん未み有う善ぜんの下種の機に合わない脱だっ益ちゃく釈尊の仏法による修行法をそのまま用いることが、かえって成仏を妨さまたげる結果となるからです。
む す び
日蓮大聖人が『観心本尊抄』に、
「釈尊の因いん行ぎょう果か徳とくの二法は妙法蓮華経の五字に具ぐ足そくす。我等此この五字を受持すれば自じ然ねんに彼の因果の功徳を譲ゆずり与へたまふ」(同六五三頁)
また『本因妙抄』に、
「信心強ごう盛じょうにして唯ただ余よ念ねん無なく南無妙法蓮華経と唱へ奉たてまつれば凡身即ち仏身なり」(同一六七九頁)
と御指南されているように、末法の衆生は、仏法の根本・根源の法体であり、戒定慧の三学をも包ほう容ようする三大秘法総在の本ほん門もん戒かい壇だんの大だい御ご本ほん尊ぞんに対し、信の一念をもって南無妙法蓮華経と唱え奉ることにより、即身成仏の大功徳を得ることができるのです。