「十如是」とは、十如境ともいい、諸法に具そなわる十種の存在の法則、諸法を十の側面から見たもので、宇宙法界の時々物々・森羅万象の存在と活動の姿を示す万物の法則をいいます。「如是」は「是かくの如ごとき」と読み、これは、ありのままの事物・事象の姿ということで中道実相を意味します。
法華経方便品第二に、
「佛ほとけの成就じょうじゅしたまええる所ところは、第一だいいち希有けう難なん解げの法ほうなり。唯ただ佛と佛とのみ、乃いまし能よく諸法しょほうの實相じっそうを究尽くじんしたまえり。
所謂いわゆる諸法の如是相にょぜそう、如是性しょう、如是體たい、如是力りき、如是作さ、如是因いん、如是縁えん、如是果か、如是報ほう、如是本末ほんまつ究く竟きょう等とうなり」(新編法華経 89頁)
と説かれた略りゃく開三顕一かいさんけんいちの文で、天台大師が一念三千の法門を立てる出処しゅっしょとなった法理です。
「如是相」とは、外より見て判別される状態のことで、あらゆる事物の相状そうじょうをいいます。
「如是性」とは、内に具わる心と心によって積まれた性質・性癖せいへきをいいます。
「如是体」とは、一切の事物の本体、当体のことをいいます。
「如是力」とは功能こうのうのことで、体に具わる潜在的能力のことをいい、種々の作用を起こす本の能力です。
「如是作」とは、力が静動二態中において、自他に及ぼす作用のことです。
「如是因」とは、過去より相続して内心に習慣的に存在し、次の果を招く習因しゅういん、直接原因をいいます。
「如是縁」とは、主要な原因を助けて果を成ぜしめる外的原因、間接原因のことをいいます。
「如是果」とは、習因が成就して顕れた結果である習果をいいます。
「如是報」とは、因と縁によって招来した結果が、さらに長く牽ひかれて現れる状態をいい、いわゆる報むくいのことです。
「如是本末究竟等」とは、最初の相を本とし、九番目の報を末として、この本と末が究竟して等しいことをいいます。
このうち相・性・体の三如是は諸法の本体を表し、力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の七如是はその用きを表しています。
すべてのものは、この十種の在り方によって生起しながら、本体と用きとが互いに一体性を保っているのです。
大聖人は『十如是事』において、三如是を仏身に約すと三身如来となり、理に約せば三諦となり、功徳に約すと三徳となることを明かされています。
私たちが勤行の際、十如是を三回繰り返して読誦することも、この徳を我が身に顕す意味からです。
さらに、『当体義抄』に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩ぼんのう・業ごう・苦の三道、法身・般若はんにゃ・解脱げだつの三徳と転じて、三観さんがん・三諦さんたい即一心に顕はれ」(御書 694頁)
とあるとおり、私たちは、ただ三大秘法の御本尊を信じ、自行化他にわたる題目を唱えることによってこそ、即身成仏が叶うのです。