六根清浄(ろっこんしょうじょう)
六根清浄とは、六根に具わる煩悩(ぼんのう)の汚(けが)れが清浄となる功徳をいいます。
六根の「六」とは、眼根(げんこん視覚)・耳根(にこん聴覚)・鼻根(びこん嗅覚)・舌根(ぜっこん味覚)・身根(しんこん触覚)・意根(いこん心)のことで、「根」とは環境を認知する人間の感覚器官とその能力をいいます。すなわち六根とは、生命の識別(しきべつ)作用の器官をいいます。
この六根を通して事物・声・香りなどの対象に触(ふ)れ、それによってさまざまな迷った認識や苦しみが生ずるのです。
しかし、法華経の『法師功徳品第十九』に、
「若し善男子、善女人、是の法華経を受持し、若(も)しは読み、若しは誦(じゅ)し、若しは解説(げせつ)し、若しは書写せん。(中略)是の功徳を以って、六根を荘厳して、皆清浄ならしめん」(開結 五四一)
とあるように、法華経に説かれている五種(ごしゅ)の妙行(受持・読・誦・解説・書写)を修すれば、六根清浄の功徳を得ることができる、と説かれています。
六根清浄の功徳とは、一に眼根清浄は、天地法界を達観(たっかん)し、一切を見通すことができる功徳をいいます。二に耳根清浄は、裟婆三千大千世界のあらゆるものの音声(おんじょう)を聞き分ける功徳をいいます。三に鼻根清浄は、一切の有情非情の香を嗅ぎ(か)尽くす功徳をいいます。四に舌根清浄は、一切の味を浄化する徳を得ることをいいます。五に身根清浄は、法界三千の因果苦楽を自己の身に悉(ことごと)く現ずることができる功徳をいいます。六に意根清浄は、一切衆生の心相(しんそう)に達し、これに対する順応力(じゅんのうりょく)を生む功徳をいいます。これらの功徳について天台大師は、『法華文句』に、
「経の力に因(よっ)て勝根の用(ゆう)あり」
と説かれているように、法華経の経力によって六根に勝れた用(はたらき)が得られることを明かしています。そして、この功徳を六即の中、相似即(そうじそく)位(五十二位のうち十信位)または六根清浄位と立てています。
しかし、五種の妙行といい、それを行じて得る六根清浄の功徳は、在世(ざいせ)・正法(しょうぼう)・像法(ぞうぼう)における修行と功徳の顕われ方であり、直ちに末法今時(こんじ)の凡夫に当てはまるものではありません。日蓮大聖人が、諸御書の中で御指南されているように、末法の衆生は南無妙法蓮華経の受持が肝要(かんよう)であり、この受持の一行(いちぎょう)による即身成仏の功徳こそ最も勝れた大功徳なのです。
すなわち、『御義口伝(おんぎくでん)』に、
「功徳とは即身成仏なり、又六根清浄なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と心得(こころう)べきなり」(平成新編御書 一七七五)
とあるように、末法における六根清浄の功徳とは、まさに妙法受持によって顕われる即身成仏の大仏果をいうのです。そして、妙法によって開かれた六根清浄の功徳は、私たちの生命を潤(うるお)して、日々の生活の中に顕れてくるのです。