四仏知見(しぶっちけん)
四仏知見とは、諸仏が世に出現する最も重大な目的、すなわち一大事因縁を明かしたもので、開(かい)仏知見(ぶっちけん)・示(じ)仏知(ぶっち)見(けん)・悟(ご)仏知(ぶっち)見(けん)・入(にゅう)仏知見(ぶっちけん)の四をいいます。
仏知見とは、仏の真実の智慧である一念三千の妙法蓮華経です。『法華経方便品』に、
「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、仏知見を示し、仏知見を悟らしめ、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」
(趣意 開結 166頁)
と説かれるように、諸仏は、衆生の生命に冥伏する妙法の仏知見を開き、示し、悟らせ、入らしめるために出現されるということです。
具体的には、「開」とは開発の義で、衆生の生命の中に妙法を開かせること、「示」とは顕示の義で、衆生の生命に妙法を顕し示すことをいいます。「悟」とは覚悟の義で、衆生に妙法を悟らせること、「入」とは証入の義で、衆生を妙法の境界に流入させることをいいます。
したがって、諸仏の化導の本意は、ただ一仏乗の妙法のみにあり、本来、二乗・三乗の法はないということです。このため、爾前四十余年において、永不成仏とされてきた灰身(けしん)滅智(めっち)の二乗も、法華経の諸法実相・開示悟入の説法により、仏知見を具えた十界互具の当体として開会(かいえ)され、はじめて成仏すべきことが証明されたのです。
このことは、また一切衆生の生命に本来、平等に仏知見が具(そな)わっていることを意味します。しかし、衆生に具わる仏性は、法華経という実際の仏による化導によらなければ活現しません。ここに、諸仏出世の本懐として、開示悟入の四仏知見が説示される意義があるのです。
さて、日蓮大聖人は、末法における一大事因縁の大法について『三大秘法抄』に、
「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし」(御書 1595頁)
と仰せです。この三大秘法こそが、御本仏大聖人の出世の本懐であり、末法の一切衆生に本来具わる妙法の仏知見を開示し、悟入することが可能なのです。
したがって、『御義口伝』に、
「我等が一身妙法五字なりと開(かい)仏知見(ぶっちけん)する時即身成仏するなり。開とは信心の異名なり。信心を以て妙法を唱へ奉らば軈(やが)て開仏知見するなり」(御書 1728頁)
とあるように、末法の一切衆生にとって、開仏知見とは、本門の本尊と境智冥合のもと、我が身即妙法と開くことであり、それは信心根本に題目を唱えることです。また、大聖人は続いて、信心を開き、我が身に妙法を示すことが示仏知見であり、さらにその住処が真の霊山浄土にして、即身成仏と悟ることが悟仏知見、そして法界三千の己々の当体がことごとく妙法と顕れ、御本尊の内証に入ることを入仏知見という、と御教示されています。
すなわち、末法においては、ただ本門三大秘法を受持信行することが、そのまま開示悟入の意義に当たるのです。