有(う)徳王(とくおう)と覚徳(かくとく)比丘(びく)
「有徳王と覚徳比丘」の故事は、涅槃経『金剛身品第二』の釈尊と迦(か)葉(しょう)の問答中、釈尊の言葉として説かれています。
如来の身は金剛身(こんごうしん)(常住の身)であるという釈尊の説法に対し、迦葉は、涅槃に入らんとする釈尊の身は限りある肉身であって、到底(とうてい)金剛身であるとは信じられないと疑います。そして、これについて釈尊が本生譚(ほんじょうだん)(釈尊が過去世に菩薩道を行じていた時の物語)をもって説示したものが、有徳王と覚徳比丘の故事です。
故事の内容
この故事は『立正安国論』等の御書に多く引用されています。これを意訳すると、次のようになります。
無量無辺阿(あ)僧祇劫(そうぎこう)の昔、拘尸那(くしな)城に歓喜増益如来が出世しました。その如来が説かれた法は、如来の滅後も無量億歳にわたって衆生を利益していましたが、その正法がとうとう滅びようとする末世に、覚徳比丘という名の正法を護持し弘宣する持戒の僧侶がいました。ところがあるとき、彼の正しい説法を憎む大勢の謗法の徒が刀杖(とうじょう)を手にして、この覚徳比丘を殺そうとしていたのです。これを聞きつけた当時の国王である有徳王は、護法のため、眷属を率いて直ちに覚徳比丘の元へ行き、覚徳比丘をかばって大勢の謗法の徒と闘いました。その結果、覚徳比丘は危害を免れましたが、有徳王は戦闘によって体中に瘡(きず)を受け、まさに虫の息という状態となってしまいました。
覚徳比丘は、有徳王に「あなたは本当に正法を護る者です。未来の世には無量の功徳を具(そな)えた身を得ることができるでしょう」と誉(ほ)め讃えました。これを聞いた有徳王は大いに喜んで亡くなったのでした。そしてその後、有徳王は阿(あ)閦(しゅく)仏(ぶつ)という仏の在(ましま)す国に生まれ、阿閦仏の一番弟子となり、また覚徳比丘も命が尽きた後、遅れて同じく阿閦仏の元に生まれ、第二の弟子となりました。さらには有徳王と共に戦闘に参加した者たちも、同じく阿閦仏の国に生まれたのです。
釈尊は、このような話をすると、迦葉菩薩に「もし正法が滅ぼされようとしているならば、まさにこのように受持擁護(おうご)すべきである。実は迦葉、そのときの有徳王はすなわち我が身(釈尊)であり、覚徳比丘とは、あなた(迦葉)の前世の姿なのである」と述べ、「迦葉よ、正法を護持する者は無量の果報を得るのである。この功徳において、私は今世、法身(ほっしん)不可壊(ふかえ)身・金剛の身を得ているのである」と金剛不壊身の大功徳を説いています。
折伏義の論拠
天台大師は『摩訶止(まかし)観(かん)第十』に、
「夫(そ)れ仏法に両説あり、一には摂(しょう)、二には折(しゃく)。安楽行の長短を称(とな)えざるが如きは是(こ)れ摂の義なり。大経の刀杖を執(しゅう)持(じ)し、乃至、首を斬るは是れ折の義なり。与(よ)・奪(だつ)、途(みち)を殊(こと)にすと雖(いえど)も倶(とも)に利益せしむ」
と述べています。
「大経」とは涅槃経のことで、「刀杖を執持し」とは有徳王と覚徳比丘の故事をさします。そしてこの故事を「是れ折の義なり」と、弘教の方軌である摂受・折伏二門の内、それが折伏の行相であることを釈しています。
宗祖日蓮大聖人は、種々の御書の中で、この涅槃経や『摩訶止観』等の文を引かれ、謗法充満の末法は、折伏をもって一切衆生を利益せしめることを説かれています。
すなわち「首を斬る」折伏義とは、有徳王・覚徳比丘の世の断命の意味に準じ、今末法においては邪法・邪師の邪義の謗法を責め、また布施を止める「破邪」と、正法正師の正義への帰依という「立正」によって、それは成就するのです。
僧俗の関係
命も顧(かえり)みず邪師のはびこる悪国に正法を宣示した覚徳比丘。そしてその覚徳比丘を護らんとして命を投げ棄(う)って衛護した有徳王。そこには正法護持のため、僧俗それぞれが不自惜身命の姿を顕しています。
大聖人が竜の口で頸を斬られんとした時、四条金吾殿は馬の口に取り付き、斬首されるならば自分も共に割腹して果てん、との勇壮な覚悟を見せ、大聖人から激賞とも言えるお誉めの言葉を賜っています。
大聖人が『法華初心成仏抄』に、
「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」
(御書 1314頁)
と説かれ、『曾谷入道殿許御書』には涅槃経の意を取って、
「内には弟子有って甚深の義を解(さと)り、外には清(しょう)浄(じょう)の檀越(だんのつ)有って仏法久(く)住(じゅう)せん」(同 790頁)
と仰せのように、正法弘宣と護持のためには、僧俗異体同心して不自惜身命の用きを顕すことが大切です。
僧俗一致こそ仏法不変の大原動力
されば『三大秘法抄』に、
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有(う)徳王(とくおう)・覚徳(かくとく)比丘(びく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔(さんげ)滅罪の戒法のみならず、大梵(だいぼん)天王(てんのう)・帝釈(たいしゃく)等の来下(らいげ)して踏(ふ)み給ふべき戒壇なり」(同 1595頁)
と、将来の一天四海皆帰妙法、本門戒壇の建立の世も、覚徳比丘と有徳王のように、正法を正しく護り伝える僧侶と、それを外護する信徒との確固たる関係によって実現されることを説かれています。すなわち、この僧俗の関係こそが、正法護持弘通のための不変の大原動力なのです。
今、私たちの足下に目を転ずるならば、明年に迫った宗旨建立七百五十年の大佳節は、広宣流布への大きな基盤となるべき重要な節目です。故に今こそ僧俗一致し、折伏に次ぐ大折伏をもって御本仏大聖人に御報恩申し上げ、盛大にお祝い申し上げ奉ることが、有徳王・覚徳比丘の故事を現代に具現するものと言えましょう。
僧俗一致の折伏戦によって、見事誓願を貫徹してまいりましょう。