法華経について(全34)
14大白法 平成26年12月1日刊(第898号)より転載
『法師品第十』
初 め に
先の『方便品』より『人記品』に至る迹門正宗分において、上中下根の声聞等のすべての弟子が、三周の説法によって成仏の記別を授けられました。続く『法師品』より五品は、法華経迹門における流通分であり、在世並びに滅後の衆生をも利益する説法がなされ、法華経弘通の功徳が深重であることが説かれます。
特に当品では、法華経を受持・読・誦・解説・書写するという「五種法師」の功徳と、法華経が諸経の中で最第一の教えであることを明かされ、釈尊滅後における法華経弘通を勧められます。さらに弘経の心構えとして「衣・座・室の三軌」が説かれています。
『法師品』の法師とは、五種の妙行とも言い、法華経を、受持・読・誦・解説・書写の五種の行をもって自ら行じ、他を導くことを言います。
『法師品』の内容
聞法随喜の功徳
釈尊は、薬王菩薩をはじめとする八万人の菩薩たちに告げられました。
「薬王よ、今この座には、実に多くの様々な人間や生類、在家・出家の修行者などがいる。彼らが、仏前で法華経の一偈一句でも聞き、わずかでも有り難いという喜びの心を起こしたならば、そのすべての人に未来成仏の保証を授けよう。また、仏の入滅した後も、法華経の一偈一句を聞いて、少しでも喜びの心を生ずるならば、私はその人たちに記別を授けよう」
と法華経を聴聞し随喜する者は必ず未来世において仏になることを説かれました。
五種の妙行
続いて釈尊は、
「法華経の一偈一句でも受け持ち・読み・暗誦(暗んじて読むこと)し、解説し・書写し、仏を敬うように、この経に対して種々の供物を供養するならば、その人は既に過去世で何十億もの仏を供養し、仏のみもとで大願を成就していたが、人々を愍れんで、自ら願ってこの世界に人間として生まれてきたのである。この人は未来世に必ず成仏するであろう」
と、受持・読・誦・解説・書写の五種の妙行を行じる法師は必ず成仏できることを確約されました。
如来の使い
また釈尊は、
「五種法師の人は、自ら清浄な業の果報を捨てて、願って悪世に生まれて、広くこの経を演説するのである」
と説かれ、
「私が入滅した後に、この経の一偈一句を、たった一人のためにも説く者は、如来の使いである。如来から遣わされ、如来の振る舞いを為す者と知るべきである。まして、大衆の中で、広くこの経を説く者については言うまでもない。もし悪人があって、仏前で仏を毀り、罵ったとしても、その罪はなお軽い。それよりも、法華経を読誦する在家・出家の者を毀るほうが、遥かに罪が重いのだ」
と、この法華経を受持信行し、一偈一句でもこの法華経を弘めていく人は、まさに如来の使いであるということを述べられました。
三説超過の法華経
「私が説く経典は、無量千万億という多数にものぼり、已に説き、現在も説き、また未来にも説くであろう。そして、それらの中で、この法華経こそが最も信じ難く理解し難い勝れた御経である。それは、この経は、仏たちの秘密の教えである。この教えは、容易に理解できないため、仏のいる現在においても、なお恨み嫉む者が多い。ましてや仏の入滅した後にこの経を弘めるならば、なおさらのことである。したがって、薬王よ、仏の入滅の後に、法華経を読誦し、書写して供養する者がいたならば、如来は、その人を如来の衣で覆い、如来の手で頭を撫でるであろう」
と説かれ、〝已〟に説かれた爾前経、〝今〟説かれた無量義経、〝当〟にこれから説くところの涅槃経等の一切諸経に対し、この法華経が最も難信難解の法であり、真実の教えであると示されるのです。
この教えは、容易に理解できないため、釈尊在世においてすら世間の人々の怨嫉はたいへんなものであり、ましてや滅後末法において、この真実の妙法を説くことがいかに困難であるかを説かれます。
衣座室の三軌(弘経の心構え)
また、もし人々が、如来の入滅後の時代に、法華経を説き弘めようとするならば、次の心構えが必要であることを次のように説かれました。
「如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に座って、如来と同じ気持ちになって説くことである。如来の座とは一切の人を分け隔てなく慈しむ慈悲の心であり、如来の衣とは柔和で忍耐強い心、また如来の座とはあらゆる目先の物事に執着しない心である」
さらに釈尊は、重ねて偈頌をもって説かれました。その中には、次のようにあります。
「私の入滅後、どのような者でもあれ、この経を説くならば、あるいは悪人が出てきて、その人の悪口を言い、罵り、刀や杖をもって打ちかかるであろう。しかし、法華経の仏を祈念して、耐え忍ぶべきである。そうすれば、どのような迫害を受けたとしても、私が神通力によって、出家や在家の男女を遣わし、その法華経の行者を供養し、守護するであろう」
と、法華経を説く人のために「変化の人(出家や在家の男女)」を多く遣わして、説法の聴聞衆にさせると共に、様々な難が起ころうとも説法者を守護し、さらに説法者が経典の御文を忘れたならば、その時は仏が説いて内容を通じるようにしてやろうと説かれました。
御法主日如上人猊下は、平成二十二年六月度の広布唱題会の砌に、
「妙法蓮華経の一偈一句を説く者、すなわち末法において折伏を行ずる者は、僧俗男女を問わず、等しく『如来の使』であり、『如来の所遣』として『如来の事』を行じている人々であります。つまり、妙法広布に身を尽くし、折伏を行じている人は、すべて『如来の使』なのであります。
今、宗門は(中略)僧俗一致して広宣流布への道を力強く進んでおります。こうしたなかで、我ら本宗の僧俗は、一人ひとりが『如来の使』としての自覚と誇りを持って、勇躍、折伏に励むことが今、最も肝要であろうと思います」(大白法 七九一号)
と御指南されています。
妙法広布に身を尽くす私たち本宗僧俗は、貴賎上下、老若男女の差別なく、すべて「如来の使い」であるとの自覚と誇りを持って、どのような困難があっても、必ず仏様の守護があることを信じて、最後の最後まで諦めず懸命の折伏に励み、妙法の大功徳の実証を示してまいりましょう。