諸宗教破折
浄土真宗の宗祖とされる親鸞は、実は「弟子一人ももたずそうろう」と述べている。 だから、自ら一宗を立ち上げるというより、あくまで「法然の教えを弘める」という立場であった。
その親鸞がなぜ今日、宗祖となっているのか……。
親鸞の死後、教団が各地にあり、その中の一つに親鸞の曽孫・覚如がいた。この曽孫が、親鸞の廟堂を「本願寺」と改名して活動しようと画策し、自らが正統な後継者であることを示すため、本願寺の歴代を親鸞—如信(孫) —覚如とした。こうして、法然を差し置いて親鸞を宗祖に祭り上げたのが始まりとされる。
また立教開宗については、今では『教行信証』が完成した日となっている。しかしこれは、大正十二(一九二三)年に真宗十派で発足した現「真宗教団連合」が定めた日付である。
ずばり浄土真宗は、一族の思惑によってできた教団なのである。
骨肉相食む親鸞一族
東西本願寺系は、親鸞一族によって代々継承されてきた。 が、同時に骨肉の争いも続いてきた。親鸞の子・善鸞は異端を唱え始め、さらに父子の関係を悪用して自分が正統であると主張した。 これに怒った当時八十四歳の親鸞は、義絶状を送り親子の縁を切っている。
また、娘の覚信尼は、親鸞の臨終の相があまりにも酷かったのを見て、本当に往生できたのか不信の念を抱き、母へ手紙を出している。 母に何とか励まされたが、今度は、自分の子ども覚恵 (兄) と唯善 (弟)が、親鸞の廟堂と土地を巡って争い出した。
その結果、兄は係争中に死に、弟は廟堂の御影と遺骨を奪って鎌倉へ逃げていった。
騒動は他にもある。 豊臣秀吉や徳川家康によって本願寺が東西に二分された騒動もしかり。これにより、現在一般的に知られる通り本願寺に東と西がある状態となった。 また、昭和四十年代に、東本願寺が身内で四つの宗派に分裂した通称「お東紛争」も有名で、これは三十年以上も続いた。この間、大谷家対宗教法人という訴訟事件がいくつも起こり、大谷家に捜査のメスが入るなどして泥沼化した。
これらは、為政者や信徒も関連しているとはいえ、起因は結局のところ、親族の権力闘争や金銭問題によるものだ。
日蓮大聖人は『立正安国論』で、
「若し執心翻らず、亦曲意猶存せは、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん (中略)仁王経に云はく『人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず (中略)死して地獄・餓鬼・畜生に入らん」(御書 二四九ページ)
と、念仏の恐ろしさを説かれている。
こんな現証だらけの念仏で、末法の衆生が救われるはずがない。
計り知れない題目の功徳
仏法の正意は『法華経』にある。 浄土三部経はその『法華経』へ導くための方便の教えであって、極楽浄土への往生など末法の衆生には必要ない。
『無量寿経』でも、
「この穢土は、極楽浄土と違い悪人が多く修行が困難となる。そんな穢土で一日修行することは、極楽浄土や他土で、百年修行するよりも勝れるのである。よって、この穢土で耐え忍び精進しなさい (趣旨)」
と、穢土での修行の尊さを説かれているではないか。
さらに大聖人は、
「極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか」(御書一〇三六ページ)
と、穢土の中でも、特に末法で題目を唱える功徳は、計り知れないほど勝れているとお示しである。
何が悲しくて念仏で極楽浄土を求める必要があろうか。
法然に唆された親鸞は、念仏の謗法に苦しみながら地獄の臨終を迎えた。 死後は一族に利用され、その一族もまた骨肉の争いが絶えない。まさに三悪道のオンハレードであり、他の念仏者も推して知るべしだ。
我々は、このような浄土真宗の謗法を破折し、一人でも多く救っていかなければならない。
(大白法 令和4年4月16日号)
三悪道の現証-浄土真宗
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