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所作仏事(本宗化儀の理解のために)
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○世間の人の考える葬儀=肉親が亡くなっても、もし葬式と言うも のがなかったなら、遺族の人々は悲しみに耐えられないのではな いか。葬式を行うからこそ、遺族はその中に身を浸し、なされる べきことが少しづつ進められていく間に悲しみも幾分和らげられ、また自らを慰めることも出来ると、宗教学者は葬式の利点を分析 しています。今日、世間の人たちの行う葬儀も、個々に意識はな くとも、このような学者の分析は当てはまっています。多くは、因襲的・形式的に世間体を重んじて、意義・内容にまで立ち入って考えることは余りありません。
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○本宗の葬儀=世間の葬儀とどこが違うのかと言えば、日常の信仰生活の一部として、人が亡くなれば当然葬儀も同じ信心をもって 執り行われるということです。死に赴く人も、自分のこれまでの信心の到達点として、正宗の葬儀が遺族の手で営まれるべきを望 むでしょうし、遺族の人々も、肉親が亡くなった今こそ、日頃の 自分の信心の成果を、死者の成仏を願う上に生かしたいと考える のです。
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○信心に基づく葬儀=『化儀抄』43条に、当宗の葬儀のありかたについて、「霊山への儀式なるが故に、他宗・他門、自門に於いても同心無き方を・あらがき(竹で作った垣、結界)の内へ入るべからず、法事なるが故なり」と仰せです。(富要一巻66頁)
つまり当宗の葬儀は、霊山へ死者を送る大切な儀式ですから、 謗法の人は入れず信心強盛な人のみで葬儀を営むのが本義です。 しかし今日これを厳格に貫くのは、少々無理な面もありますが、親族一類それぞれを生前に折伏して、信心を持たせておけば、 この『化儀抄』の如く、正宗の信者のみで葬儀を営む(又はそれに近い形で営む)ことも不可能ではありません。我々の目標もここに置き、折伏精進致すべきです。
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○当人に信心なき場合=『御義口伝』序品(御書1724頁)に、
「今日蓮等の類聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と 唱へ奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ」(「無間」とは無間地獄のこと)即ち死者本人がたとえ信心が無かったり、未入信であったとしても、親族の唱える題目は無間地獄まで届き、 立派に成仏せしむる事の説かれた御文です。
ゆえに、正宗の信者でない人が亡くなった場合でも、身内(親・ 兄弟)に当たる人の信心によって(喪主となり)寺院住職を導師に迎え、正宗の葬儀を行うことができるのです。
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○遺族に信心の無き場合=上記と逆に、死者当人のみ正宗の信者で、遺族は未入信の場合です。 『化儀抄』88条に、
「縦ひ昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主等無くんば仏事を受くべからず、但取骨までは訪ろふべし云々」
とあります。親の信心を受け継ぐ子息が孝子ということで、その 孝子の無い場合、葬儀・火葬・取骨までの回向は、正宗の寺院で執り行なう事ができます。これは、故人の生前の信心に対して行 うものです。しかし、それ以後初七日からの追善供養は、正宗では出来なくなります。即ち、追善供養とは、遺族の信心をもって 営むものですから、その人々が信心をしていない(未入信)で あれば、法事は行えないのが道理です。世間の無信仰の人達が、ただお経をあげて貰えさえすれば、供養になるだろうと考えるの とは、おおいに趣を異にします。
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○導師曼荼羅の事=葬儀のおり御安置される御本尊を、導師曼荼羅 (御本尊)と申し上げます。死者を霊山浄土に導く師、即身成仏の導師となる御本尊様の意味です。
『妙法曼荼羅供養事』(御書689頁)に曰く、
「此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山の如し。 生死海の船なり。成仏得道の導師なり。」
の御文をよくよく信心を以て拝すべきであります。
また『持妙法華問答抄』(御書1297頁)には、曼荼羅を「無為の聖衣」と説かれ、「死後の耻をかくす信楽慚悔の衣」との示し書 、即ち生前の宿業を覆い隠して、自らの非を恥じ仏道を志す印とな る衣との意味でありましょう。
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○導師の事=葬儀の時には寺院より導師御本尊様とともに、僧侶を導師に迎えます。これも世間の人の、僧侶のお経と引導がなければ葬式にならないというような考えではなく当宗にあっては僧侶は大聖人様のお使いであるという信心に住して、導師を迎えることが肝要です。
『上野殿御返事』(御書1361頁)には、
「相かまへて相かまへて、自他の生死は知らねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし」
と説かれております。
第五十九世日亨上人はこの御文について、必ずしも、大聖人様が 死者の枕辺に来られなくとも、弟子である僧侶が代理として出張 されることがこの義に当たると、「迎い僧」の例をもって、解釈 されています。(聖訓一百題33頁)もって形式一辺倒の世間の考 え方に同じて、信心を失う事のなきよう、気を付けたいものです。
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○寺檀和合の大切な事=『化儀抄』第6条に、亡者への引導回向には、導師たるもの少しも私の意志をはさむことなく、虚心坦懐に 読経唱題して、妙法の功力に任せる事が大切である旨、説かれています。しかし敢て言えば、普段から信徒と住職の間に強い信頼 関係があることが、より望ましいことは、言うまでもありません。 普段寺院に参詣しない人が亡くなり、葬儀の申し込みを受けて初 めて、その人の存在を知ったという例もまゝありますが、導師としての回向は些かも変わらずとも、即身成仏を念ずる大切な儀式ゆえに、信心を通した日頃からの寺檀の交わり、僧俗の触れ合い が大切だと思います。
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○地域の風俗・習慣・しきたりとの兼合い=葬儀に関わる風俗・ 習慣・迷信の類いも、土地々々で様々なものがあります。 それ等のうちで、念仏信仰等に関係あるものについては、謗法で すから厳しく戒めなくてはなりません。また根拠も無い迷信によって、無駄なしきたりを強いたり、かえって家族に負担をかける場合もありますが、それらを除けば、あながち土地々々に伝えられてきた習俗等を無視してしまうことも無いと思います。
大聖人様も御書の中で、たとえば『持妙法華問答抄』(御書297 頁)に、
「有為の凡膚に無為の聖衣を著ぬれば、三途に恐れなく 八難に憚りなし」等と、明らかに死出の旅をして、死者が黄泉の国へ赴くという、世間の考えに順じて、法を説かれています。 法華経の教えからすれば即身成仏であって、わざわざ死の旅立ちをするわけではないのですが、その方が理解され易いとして、このような表現をされたものと拝されます。これを随方毘尼の法門と言い、謗法にならない限り地域の慣習等に従う中で、正法を弘めていくのも、布教の有効な手段です。
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