法華経の五百弟子受記品のなかに「貧人繋珠の讐え」が説かれております。(中略)
これは、ある人が親友の家で酒に酔って寝てしまった。その時に、その親友は役所の仕事があって出ていかなければならないことになったので、酔い臥している友人の着物に最高の宝珠を縫いつけて出ていったのであります。
目が覚めたその友人は、何も知らず親友の家を辞して、諸国を放浪します。そして、再びみすぼらしい姿で、かつての親友に出会うのでありますが、親友はそのみすぼらしい姿を見て「どうしてそんなにみすぼらしい姿をしているのか。君の生活を楽にさせるために、あんなにも高価な宝物を君の着物に縫いつけておいたではないか」と諭したのであります。
身に宝珠を付けながら、みすぼらしい姿をしていたということは、仏性を持ち仏と成るべき身が、小乗の阿羅漢の位に安住して努力をしなかった五百人の弟子達のかつての姿であったことを恥じて、自らこの讐え話を語るのであります。
この点について経典には、
「我等無智なるが故に 覚らず亦知らず 少しき涅槃の分を得て 自ら足りぬとして余を求めず」 (法華経307ページ)
と述べています。
この経文のなかに「無智なるが故に」という言葉があるように、我々自身もこういった教訓をとおして、愚かさのために今、最も大事なことを忘れてはならないと、このように思います。(中略)
何か本当に大切なのかということを、我々はしつかりと見極めて、仏道修行に励んでいかなければならないと思います。
(平成二十一二年九月号67ページ)