臨終の大事

 所作仏事(本宗化儀の理解のために)

「葬式仏教」などと言う事が世間で言われていますが、いわゆる現代の仏教諸宗派は衆生教化という本来の使命を忘れ、葬儀法事等の儀式のみでその命脈を保っているという批判です。
世にはびこる爾前権教の諸宗は、真に人々を救う事ができない偏頗な教えですから、現代の様な堕落も必然なのかもしれませんが、大聖人様の仏法は、三世に亘って生命の実相を説き明かした最極円満なる教えです。
  御書には、 「生死ともに仏なり」
との御文もある如く、私たち生きている者が、大聖人様の仏法を生涯の指針として、時々刻々即身成仏の境地を願うのは当然ですが、一方亡き親先祖の精霊を救い、また自分自身の没後の成仏もかなえられてこそ、三世を利益する大聖人様の仏法を持った意義があるわけです。
 「生」あれば「死」があるのは当然であり、
『生死一大事血脈抄』(513頁)に
 「妙は死、法は生なり、此の生死の二法が十界の当体なり、又此を当体蓮華とも云ふなり」
 と、一念三千の法門の上から説かれました。されば「生」と「死」の接点である臨終のことを学び(死に赴く人が主体)、葬儀の心得を学ぶ(死者を送る人が主体)のはむしろ当然のことだと思います。
特に臨終については、第二十六世日寛上人が『臨終用心抄』(富要三巻259頁)を著わされ、臨終の大事を詳細に説かれています。
 今はその『臨終用心抄』に基づいて、以下に記してまいります。
 ○先ず臨終を習うべし=『妙法尼御前御返事』(1482頁)に、
   「人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事もなし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定めなき習ひなり」 とあります。
人間誰しも必ず一度は臨終を迎えねばなりません。「死は不吉だ」とか「思いたくもない」と避けようとしても、死から逃れられる人は誰もいないのです。「生」の行く末が「死」だと思えば、何と人生も果無いものかという事になりましょうが、死を迎える覚悟をした上で、翻って生を考えれば、目的ある有意義な人生、仏道に根ざした生涯を送ることもできます。 故に大聖人様は先の妙法尼抄の続きに、
   「されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」
  と仰せになられたのです。
 ○臨終の相=人の一生涯の総決算は、その人の臨終の相の中に、凝縮して現れます。あたかも一年間の総決算が大晦日の一日に表われる如く、また学生時代の総決算が卒業時の成績書に全て盛られるように、一生の総決算が臨終の相として現れるのです。前掲妙法尼抄に、この事が諸経論を引いて説かれています。
  大論に云はく「臨終の時色黒きは地獄に堕つ」天台大師の摩訶止観に云はく「身の黒色は地獄の陰を譬ふ」大論に云はく「赤白端正なる者は天上を得る」一代聖教の定むる名目に云はく「黒業は六道にとどまり、白業は四聖とな」
 また『千日尼御前御返事』(御書1290頁)にも、
 「善人は(乃至)臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、輭らかなる事兜羅綿の如し」
 とあります。
則ち臨終の相はその人の一生の縮図であるとともに、来世どのような境地のもと生を受けるかを示す、指標ともなっているのです。
「如是相(乃至)本末究竟等」と、即ち臨終の(如是)相が基となって、来世の(果)報までが一貫して等しいと説かれる如くです。
 そこで、我々は常日頃から、どうしたら立派な相をもって臨終を迎えることが出来るか、成仏の相を現ぜられるかを、深く考えておくべきでしょう。これが即ち「臨終正念」の心構えということなのです。
 ○臨終正念=「死」に臨んだ時、正しく正法の信心に住して迎える事が出来るか、御本尊様を忘れずに、南無妙法蓮華経と唱えて今生の最後とする事が出来るかということです。
 しかし、後に述べますように臨終の際には様々な障礙が惹起し、正念を妨げますから、容易なことで臨終正念は果たせません。
 日寛上人は、多念の臨終 と 刹那の臨終 の大事を説かれました。
 ○多念の臨終=木が倒れる時、その曲がった方に随って倒れる如く、「臨終の一念は多念の行功による」と、日寛上人は説かれました。
 つまり、常日頃の不断の信行の積み重ねがあってこそ、臨終正念もかなうということです。
「習慣は第二の天性なり」と、世間のことわざにもありますが、普段より唱題の修行を怠りなくしておく事が、いざという時の正念、唱題に繋がります。常日頃唱題もしない人が、どうして臨終に題目を唱えることができましょか。「臨終只今にあり」との御金言の如く、私たちは平生から臨終の心構えをしておく事が大切です。
 ○刹那の臨終=只今、いよいよという時のことです。平生の仏道精進の結晶が、この瞬間に一辺の題目となって現われれば、即身成仏は疑いありません。大論に
 「臨終の一念は百年の行力に勝れたり」
とあり、死に臨んでの一遍の題目は、百年間の仏道修行にも勝れるのです。 
『妙法尼御前御返事』(御書1483頁)に
 「最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪行変じて仏の種となり給ふ」とある仰せを深く信じるべきです。
 ○臨終に心を乱すもの=日寛上人が三通り挙げています。
 一、断末魔の苦・・・・人が息を引き取る間際に、断末魔の風と言うものが起こって、体内を吹き抜けると言われています。
 正法念経に
 「命終の時風皆な動ず、千の尖り刃其の身の上を刺すが如し。(乃至)若し善業有れば苦悩多からず」 と。また顕宗論には、生前悪口や皮肉などで人の心を傷つけた者は、風刀の苦を受けると説かれています。安らかな臨終を迎えるためにも、正法への信行を根本とした、「善業」をおおいに積んでおきたいものです。
二、魔障の故・・・・『治病大小権実違目』(御書1238頁)に曰く
  「止観に三障四魔と申すは権経を行ずる行人の障りにはあらず。今日蓮が時具さに起れリ(乃至)御臨終の御時は御心へ有るべく候」
と。また『兄弟抄』(986頁)に「魔競はずば正法と知るべからず」
と。即ち魔有る事が正法の行者の証しであり、ましてや今生における一大事、臨終を正念に住して迎えるとなれば、障魔の競うのは当然です。故に、臨終の意識朦朧とした中で、たとえ諸仏が迎えに来るような善相を見ても喜ぶ事なく、逆に諸悪が身に迫ってこようと、心を動じさせる事なく、ひたすら妙法を唱えよと、教えられています。
三、妻子縁者の嘆きと財宝への執着・・・・臨終に妻を哀れんだ者は、死後妻の鼻の中に住む虫に生まれ、隠し置いた財宝を心に懸けながら死んだ者は、死後その財宝に巣くう蛇となった事が、昔話にあります。(臨終に)花を愛する者は蝶に生まれ、鳥を愛する者は畜生に生まれるとも説かれています。よって、財宝等については、生前のうちに遺言等を用意しておくこと。また家人は臨終者に、執着ある物を見せたりしてはなりません。妻子眷属の嘆きも、臨終者の心を乱す大きな要因となります。
 『御講聞書』(御書1834頁)に
 「諸鬼神等揚声大叫の事 仰せに云はく、諸鬼神等と云ふは親類部類等を鬼神と云ふなり。我等衆生死したる時、妻子眷属あつまりて悲嘆するを揚声大叫とは云ふなり」
 つまり死を迎える親兄弟を惜しんで、泣き叫ぶ家人の声は、臨終者にとっては鬼神の叫びにも聞こえ、正念を妨げるのですから、重々慎まねばなりません。
 ○臨終は勧める人が肝要=乗馬を習う人がいるとします。予めうつむくように要領が教えられていても、いざ馬の背に跨がると、振り落とされない事に気持ちが集中して、ついうつむくことを忘れてしまいます。そこで端で見ている人が声をかけることによって、この人もうつむく要領を思い出すのです。
それと同じ様に、臨終を迎える人も様々な障礙に襲われ、意識も朦朧としてきますので、題目を唱えつつ臨終を迎えるということは大変なことです。それゆえに、側にいる家人等の勧めが大切なのです。
「其の勧め様は唯題目を唱ふる也」と『臨終用心抄』に説かれています。
  即ち日常元気な内から、家人に、
 「自分に臨終が近付いたなら、御本尊様を念じ、題目を唱えるよう勧めて欲しい」と頼んでおく事です。これも臨終を正念で全うするための、大切な用心の一つです。
 ○臨終の作法=『臨終用心抄』に、臨終の作法が箇条書きにして掲げられていますので、その趣意を取って次に挙げてみます。少々細事に拘りすぎるかもしれませんが、臨終の時は当人もさる事ながら、家人もなかなか冷静になれないものです。そこで日頃から、信心の上でどのような点に注意すべきかを、心得ておく必要があります。
(病院等で臨終を迎える場合には、自ずから不可能の場合も多いと思いますが、作法の心得としては同様に考えて然るべきです)
 一、臨終の作法はその場所を清浄にして御本尊様を奉掲し、華・香・燈明を奉る。(御本尊様は寺院より導師曼荼羅をお迎えし、臨終を迎える当人を北枕に寝かせ、その頭の上の方に奉掲するのが本義です。しかし今日一般的には、自宅の御本尊様の前に寝かせて、臨終を迎えさせます)(覚法寺は、導師曼荼羅をお迎えします)
 一、当人の呼吸に合わせて、早からず遅からず、家人が一緒になって、静粛の内に唱題をします。この時一定の間隔をもって鈴を打ちます。
 一、臨終を迎える場所では、世間の雑談は一切慎みます。特に、当人の気にかけている事、執着しそうな話をしてはなりません。
 一、当人が問う事があれば、心を乱されない程度の、差し障りのない返事を
    をします。
 一、当人の目の触れる所に、特に気を引きそうな物(日頃から大切にしていた物等)を置いてはいけません。
 一、当人に対して、(喜怒哀楽の生涯、様々な想いが去来しても)
   「何事も夢のようなものと忘れ、南無妙法蓮華経と唱えなさい」
   と、勧めてあげる事が肝要です。
 一、当人の好まない人は、近づけないようにします。また、見舞いに訪れた人の一々を、告げる必要  はありません。
 一、枕辺に付き添う人は、三~四人を越えないようにします。多ければ騒々しなって臨終の心を乱し ます。
 一、肉類や五辛(にら・にんにく・はじかみ・ねぎ・らっきょう)のような強い食物を食べてきた人、また酒に酔った人が見舞いに来ても、たとえどれほど親しい人でも、家には入れません。また、家の中で魚等の臭いの出る料理もしてはなりません。当人に臭気が及べば心を乱し、天魔が便りを得て、悪道に引き入れるからです。
 一、臨終の時には喉が乾くものです。清紙やガーゼのようなものに水を含ませ、時々口を潤してあげます。
 一、只今が臨終だという時には、御本尊様を見せてあげ、当人の耳のそばにて、
    「大聖人様が迎えて下さっています。お題目を唱えましょう。」
    と勧めて、当人の息に合わせて、一緒に唱題します。すでに息を引き取っても、暫くの間は題目を唱えて、耳に聞かせてあげます。これは、当人が死んでも「底心」があり、魂は去りやらずに残っているからです。ご遺体(死者)に唱題の声を聞かせることが大切です。
 一、臨終を見取る人は、荒々しく介護をしたりして、当人に瞋恚を起こさせてはなりません。断末魔の苦しみが起こった時、指を一本触れただけでも、大磐石を投げられた程の痛みがあるからです。臨終に瞋恚を起こせば、悪道に生まれると説かれています。
 また臨終を迎えている人に対して、疎略に思ってもいけません。総じて、御本尊様以外のものは見させるべきでなく、妙法の声以外は、聞かせるべきではありません。
 ○臨終の大事のまとめ=日寛上人の『臨終用心抄』を基として、臨終の心得を、臨終者当人と、家人の双方の立場より述べてまいりました。誰しもが一度は迎えねばならない臨終であり、また様々な障礙
の惹起する臨終であれば、普段からの信心に住した心掛けが何よりも大切である事は、言うまでもありません。
 『上野殿御返事』(御書1218頁)に
 「臨終に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひける事は、一眼の亀の浮木の穴入り、天より下すいとの大地の針の穴に入るがごとし」
 と。臨終に唱えるたった一返の題目が、どれほど難しいものであり、またどれほど貴いものであるが、もう一度考えたいものです。

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