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三世の生命

信行のポイント
過去世・現世・未来世と続く三世の生命
 おそらく、三世の生命を科学で証明し尽くすことは、不可能であります。
 何故かといえば、科学というのは、あらゆる存在を形で捉えられる側面から究明していく学問でありますから、仏法で説く「空」の概念については、まずもって埒外です。(※「空」については後述(死後の生命と「空」について))(埒外=物事の一定の範囲外)
 しかして、死後の生命はこの「空」の状態で存在しますので、これを科学的研究だけで完全に把握し、証明し尽くすことは不可能なのです。まさに、「空」観を知らずして、三世の生命に迫ろうとすれば、そこには自ずから限界があり、それでも強いて論じきろうとすれば、さまざまな矛盾点が出てくる、といってよいでしょう。
 事実、昨今、世間で言われている”三世の生命”についての主張の中にも、残念ながら、いくつかの大きな矛盾をはらんでいます。そのことも含めまして、以下、仏法における”三世の生命”観について述べてみましょう。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
「生命の連続」を道理の上から考える。
 まず、生命が三世にわたって連続している、ということについて、一般的な道理の上から考えてみたいと思います。
 現在の科学で「質量不変の法則」というのもがあります。
 これは、宇宙間に存在しているのもは、たとえ形が変わっても、その絶対的な質量は変わらない、それを構成している分子の数は不変である、ということです。例えば、紙に火をつけて燃やしますと、その紙は灰になって、紙という形での存在はなくなります。では「無」になったのかといえば、そうではありません。紙を構成していた分子が空気中の酸素と結合し(これを燃焼という)、紙は塵灰へと変わりましたが、紙を構成していた分子それ自体は、無くなるわけでも、減るわけでもありません。酸素と化合して、別の形となっただけのことです。これを「質量不変の法則」と言うのです。
 しかして、宇宙間の全ての存在が、形が変わっても、無くなってしまう事は無い、質量不変の法則で永遠に存在している。・・・と言いながら、ただ一つ生命だけは、死ねば無になってしまう、と言うのでは、実に整合性のない、おかしな話ではありませんか。
 仏法では、この「質量不変の法則」と同じように、私達の生命も、生から死へ、死からまた生へと、形を変えながら、永遠に存在していると説くのです。
(※疑問=「質量不変の法則」では、命「生命」と身体とは切り離して考えると身体は、”質量不変の法則”によって他の分子に変わり不変である事が説明できる。命は「無でも無し、有るでも無し、」質量が有るとは、思えないのですが・・・?)
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
仏法の道理から三世の生命を考える。
 次に、生命が、前世・今世・来世の三世にわたって連続している、と言うことについて、仏法の道理の上から、少し考えてみます。
 まず、”前世がある”ということですが、我々は、生まれながらにして、皆、差別をもってこの世に誕生しています。たとえば、大雑把に言っても、裕福な家に生まれる人もいれば、貧乏な家に生まれる人もいる、また、健康な身体で生まれる人もいれば、障害をもって生まれてくる人もいる、あるいは生まれながらにして穏やかな性格の人もいれば、生まれながらにして気性の激しい人もいるでしょう。
そのように、人それぞれが異なった境遇に誕生しているのであり、何から何まで全く同じ、という人は一人としていないはずです。
 では何故生まれながらにして、こういう差別があるのでしょうか!世の中の物事には、全て、原因と結果があります。原因があるから結果が出てくるのであり、原因なくして結果だけが出てくる、などという事は一つとしてありません。そして、全ての物事に原因と結果を認める事を、”道理”といい”道筋”というのであります。であれば、生まれながらにして障害を持っていたとしても、あるいは、貧困の家に生まれたとしても、あるいは、喧嘩の絶えない両親のもとに生まれたとしても、それらは一つの結果であって、その以前に、それをもたらす原因が必ずあった筈なのです。
 では、その原因はどこにあるのか!。生まれながらにして差別があるということは、その結果を生じさせた原因は、生まれる以前に有ったということになります。
 そのように考えてみると、これはやはり、前世(過去世)というものがあって、そこにおける我々の生き方なり行いが原因となって、生まれながらに、こうした結果を受けた、と言わざるをえません。
 次に、”後生があるか否か”ということですが、仏教では、生前に謗法を犯せば、これが原因となって死んでから地獄に堕ち、逆に、正しい仏法を修行して功徳を積めば、不幸の業因を消滅させて、今生で幸福になれるばかりか、それを死んだ後まで持っていける–!つまり成仏の境界と言って、死後にも安息している幸福感を味わっていくことができる、と説かれています。
 そして、その証拠として、亡くなった人のご遺体の上に、地獄に堕ちた場合は地獄の相、成仏した場合は成仏の相という、厳然たる違いが現れる。と示されているのです。
 具体的にいえば、地獄の相とは、ご遺体の目がカッと見開いて、口をあんぐりと開いてしまったり、あるいは逆に、目や口も固く閉じてしまう。!そういう凄まじい形相になってしまう。またご遺体がカチカチに硬直してしまい、時間の経過とともに、紫色の死斑が出て汚くなったりどす黒く変色する。また腐敗臭が出る—! などと説かれています。
 これは、実際にその通りなのです。謗法の人が亡くなって、いざ棺にご遺体を収めようとしたところ、手足を曲げたままの状態で硬直してしまっており棺に入れられない。それでしかたなく、手足をボキボキ折って、ようやく収めた、などという事が幾例もあります。また、腐敗臭についても、死後に臭いが出るのは勿論のこと、凄まじいケ-スでは、まさに死に瀕している状態のうちから、死臭を放ちはじめる、ということもあります。世間では、この腐敗臭をごまかすために、ドライアイスを乗せ、強い臭いの
香を焚くのです。それから、ご遺体の色が、数時間たつうちに、どす黒く変色してしまうこれをごまかすために、ドライアイスを加えて、厚い死化粧を施したりするわけです。これらが、地獄の相です。
 逆に亡くなった人の生命が成仏した場合、その証拠にご遺体の相がどうなるかというと、まず、半眼半口といって、目も口も半分開いて穏やかな表情になり、肌の色は、たとえ生前に浅黒かった人でも色白となって、艶がよい。身体は綿のように柔らかく、死後硬直が起こらない。臭いもまったく出ない、等と説かれています。
 私達は、信心している人の臨終に立ち会ったり、葬儀に参列したり、あるいは、それを見た人から直接聞いたりして、数多くの成仏の相に接してきました。謗法だらけの世間では、この成仏の相ということが、なかなか信じられないようですが、まさに、仏法に説かれる通りの姿なのです。私達は、こういう現実をたくさん見てきています。そして、その厳然たる死相の違いから、仏法で説くように、生命は死によって「無」になるのではなく、死んだ後も継続している、しかも、死後の生命には、全身を焼き尽くされるような苦しみで悶絶している地獄の生命もあれば、成仏の境涯を得て安息している生命もある、ということを信じられるのであります。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
死後の生命と「空」について
 死後の生命は、どのような状態で存在していくのか、という事についてですが、まず、仏法では、世の中のあらゆる存在を大きく二つに分けて、”有情”と”非情”とに立て分けています。”有情”とは、人間や動物のように、自分の感情、精神作用、思考能力を持っている存在のことです。”非情”とは、これらの働きを持たない存在のことです。
 これは、科学における”生物”と”無生物”という分類にも似ていまが、少し違っていまして、無生物は当然、全て”非情”に該当しますが、”生物”の中でも、たとえば植物は、”非情”に含まれます。また、アメ-バや微生物などの類も、どちらかと言えば”非情”の部類に入るでしょう。ですから、有情と非情を分ける一線は、生物と無生物を分ける一線よりも、さらに生物よりの方に引かれている、といえるわけです。
 そもそも、この世の中には大きく分けて有情と非情しか無いわけですから、有情である人間の生命が死んだらどうなるか、といいますと、有情で無くなれば非情になるしかない、つまり、有情から非情へと切り替わるのでありまして、それを「死」というのであります。”有情から非情に切り替わる”という意味は、死によって、我々の肉体が、生命活動をなくした非情の遺体・遺骨になり、そこに死後の生命が留まっている—-!と言うことでは有りません。
 死によって、有情としての命を終え、非情に切り替わる—-!その際に、生前、どのような生き方をして、どのような業因を作ったか、それによって、どのような果報を得るかが、異なってくるのです。
 例えば、生前、仏道修業をしっかり行じて、臨終に成仏を遂げた人の生命はどうなるか、非情に切り替わるというけれども、その生命はどうなるのか、と言いますと、草木に顕された南無妙法蓮華経の御本尊(仏界の当体)の中に溶け込むのです。御本尊を非情の体として、そこに一体となるわけです。
 また、生前に謗法を重ねて、死んで地獄に堕ちる人は、どうなるかと言いますと、「地獄は赤鉄に住す」と言われておりますから、死後の生命は、大地の底の赤鉄を体として、そこに一体化する、といえるでありましょう。このようにして、生前に作った業因に応じて、それぞれ異なる果報の体を得る、という形で、有情は非情に切り替わるのです。
 では、死後に残されたご遺体やご遺骨はどういう位置付けになるか、と申しますと、亡くなった人の生命と最も縁の深かったのがご遺体でありご遺骨であります。ですから、死後の生命が成仏を遂げていれば、最も縁の深かったご遺体の上に成仏の相が現われ、また、逆に地獄に堕ちて苦しんでいれば、そのご遺体が地獄の相を現ずるのです。決して、ご遺体やご遺骨に死後の生命が留まっている、というわけではありません。
 さて、我々が生きてるうちは、「あなたの生命はどこにあるか」と聞かれれば、「ここにある」と言えますが、ひとたび、思考能力も精神作用も持たない非常に切り替わってしまえば、その生命はどこに有るかは、なかなかハッキリとは解からないものです。
 有るんだけど、明確に「どこにある」と断定することは出来ないし、掴みようが無い、—–! こうした状態を仏法では「空」と呼びます。つまり、「有」でもなければ「無」でもない、それでいて、「有」でもあり「無」でもある状態—-! 是を「空」と言うのです。
 西洋哲学の考え方では、”本質的には有るが、それを形として捉える事が出来ないから無いのか、と言えば、有る”—-! こういう概念を「空」として説いています。そして、死後の生命(有情から非情に切り替わった生命)についても、「空」という状態で存在している、と説いているのです。
 世間には昔から、「霊魂説」といって、死んだ後、肉体から霊魂が抜け出して、それが空中を漂って存在していく、等と言う説がありますがこれは死後の生命を「有」として捉えているもので、仏法で説く「空」は、まったく意味が違います。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
疑問 霊魂説の捉えかたが少し違うような気がします。身体(仮)と命「空」の捉え方だと思うのですが、身体は仮のすがた命は(空)のまま自身の命で死んだら成仏か迷いの世界かへ霊魂は迷いの衆生で見える人には見えると御隠尊猊下が仰せられています。したがって”有情””非情”の分類は身体だけで、命は?解けない(説明がつかない)のではないかと思います。
理というものの内容は三つ空と仮と中
 人間界における生活、生存の上から様々な考え方やあり方は、全部この仮の中に入っているんですね。仮と言うのは仮と書きまして因縁和合の姿、その上から一切が出てくるのです。その仮の中において、様々な体験、経験があるのです。今、世界で色々なことが起こっていますね。
 今年はあの一月十七日の関西・神戸の大震災をはじめとして、次はサハリンの大地震だ。その他、オウム真理教の問題など、実に大変なことが色々と起きてます。今年は猪の年ですから、色々な問題がどんどん出てくる年に当たっているかも知れません。とにかくあらゆることが、今初めて出ているようにみんな思っていますが、そうではないのです。久遠元初以来の迷妄の姿の繰り返しなんです、どんなことも。別に驚くことは少しもないのです。仏法によって本当にしっかり見ていれば。全部、実態は仮の姿なのです。
 しかし、大事なのは、空ということなんですね。空というもの自体に仮が全く具わっているということをはっきり知ること。それが、世の中には分析していかないと空が判らないとう人達が多いのです。ですから、実に世間が仏法を正しく知りません。礼節から何からはみ出してめちゃくちゃな姿が多いのです。世間一般で、息子が親に対して、こうだああだと自分の目下以下の悪い言葉を使っておりますでしょう。「そうだよ、こうだよ、そんなことあるかい」なんてね。もし皆さん方にそういう子供がいたら、ひとつ少しずつお題目を唱えていかせることですね。そうすると自然に立派になっていきますから。
 これだけ世の中が狂ってきているんです。今、あらゆるものがそうです。しかし、私は敢えて慨嘆しません。(慨嘆=憂い嘆くこと。)その一人ひとりの中に本当の空仮中、円融の三諦が具わっており、それが、そのままそれが仏の生命が具わっているということだからです。
※ 御法主日顕上人猊下御講義集より抜粋
死後の生命が感じる地獄の苦しみ
 日蓮大聖人は、
「先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(御書1482㌻)
と仰せられ、まず臨終のこと、死後の生命のことをよく弁えることが大切である、と教えられています。
 なぜ、死後のことを弁えねばならないのか、と言いますと、生きているうちは、たとえ嫌なことが有ったとしても、他人に愚痴をこぼしたり、酒を飲んだり、遊びに行ったりと、それなりに気分転換をして紛らわせることが出来ます。ところが、死んだらそうはいきません。死んだら主体的な活動は一切出来なくなりますから、当然、身体を自由に動かして発散することも、他のことを考えて気分を紛らわすなどということも、一切出来なくなります。そして、自分が生前に作った宿業を、一瞬一瞬、ただ受動的に感じ続けていくしかない—-! つまり、もし、生前に謗法をして地獄に堕ちたなら、その死後の生命は、瞬時も休む事なく、地獄の苦しみを受け続けていくしかないのです。
 なお、地獄とは、たとえば、生きながらにして全身を焼く尽くされるような苦しみであるとか、鉄と鉄の塊の間に挟まれて生身のまま潰される苦しみであるといった、凄まじい苦しみの様子が、経典にも御書にも説かれています。ところが、最大の地獄である”無間地獄”(絶え間なく大苦悩が続く境界)についてだけは、まったく詳しく説かれていません。その理由について、日蓮大聖人様は、『顕謗法抄』に、
「若し、仏此の地獄の苦を具に説かせ給はゞ、人聴きて血をはいて死すべき故に、くわしく仏説き給はずとみえたり」(御書278㌻)と示されています。このように、凄まじく、恐ろしいのが無間地獄(阿鼻地獄)と言う事なのです。そして、死後の生命は、その恐ろしい苦しみを、どのようにしてみても避ける事は出来ません。
 その恐怖を真に弁えれば、我々は、ただボンヤリと生きて、臨終を迎えるわけにはいきません。どうしても成仏を遂げて、死後にまで安息の幸福境涯を持っていかなければならない、どうしても成仏の境涯を獲得しなければならない—-! だからこそ、今、生きてる間に、しっかりと仏道修行に励むことが大切なのです。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
『新池御書』を拝して
人間の一生には限りがあります。日蓮大聖人は、人生の無常について、『新池御書』の中で、「噫、過ぎにし方の程なきを以て知んぬ、我等が命今幾程もなき事を。春の朝に花をながめし時、ともなひ遊びし人は、花と共に無常の嵐に散りはてゝ、名のみ残りて其の人はなし。花は散りぬといへども又こん春も発くべし、されども消えにし人は亦いかならん世にか来たるべき。秋の暮れに月を詠めし時、戯れむつびし人も、月と共に有為の雲に入りて後、面影ばかり身にそひて物いふことなし。月は西山に入るといへども亦こん秋も詠むべし。然れどもかくれし人は今いづくにか住みぬらん、おぼつかなし。無常の虎のなく音は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし、屠所の羊は今幾日か無常の道を歩みなん」(御書1457㌻)
と仰せられています。これを簡単に通訳いたしますと、
 「我々の命がはかないものであることは、すでに過ぎ去った日々が、あっという間であったことからも知れる。春に一緒に花を眺めた人は、花が散るのと同じように死んでしまい、名前ばかり残って、その人はいない。花は散っても、また春がくれば咲くが、亡くなった人は、今度いつの世に生まれてくるであろうか。また、秋の名月を一緒に眺めた人も、月が雲に隠れるように、亡くなってしまった。その人の面影は私達の記憶の中に残されているが、その人がそばに来て何かを言う、ということは二度とない。名月は西山に沈んでも、また次の秋になれば同じ月を見ることができる。しかし、亡くなった人は、今どこにいるのか、はっきりわからない。(実際にいる虎には、誰しもが驚くが)すでに死ん
でしまった虎の鳴き声を、あたかも今、耳もとで聞いているかのように思い出してみたところで、誰もそれに驚くことはない。屠殺場に連れられていった羊は、あと何日、限られた命を生きていくのであろうか。」
 日蓮大聖人様は、こうした事柄を挙げられて、”全ての物事が無常である。永遠に存在するものなど、何一つなく、生まれてきたものは、必ず死ななければならない、あの友も、この友も、すでに死んでしまったように、いずれ、自分にもそういう時がくる。この無常の定めから誰も逃れることはできない”という厳しい現実を述べられ、そして、限りある短い一生だからこそ、仏道修行に励んで功徳を積み、成仏しきっていくことが大事なのだ、と教えられているのであります。
 そして、次下(御書の続き)では、「雪山の寒苦鳥」に事寄せて、仏道修行を貫く心構えを示されています。
 「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明けなば栖つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖つくらずして一生虚しく鳴くことをう。一切衆生も亦復是の如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。」(御書1457㌻)
 雪山とは、一年中、雪が消える事の無い山のことで、ここに住んでるといわれる寒苦鳥という鳥は、夜ともなれば、凍えるような寒さに責めさいなまれ、「夜が明けて太陽が昇ったら、巣を作ろう」と、一晩中、悲鳴を上げ続けます。ところが、いざ太陽が昇ってくると、その暖かさに、夜の寒さなどすっかり忘れて眠り惚け、一日を無為に過ごしてしまう。そして、また寒い夜が来ると、再び寒さに震えながら、「明日こそ巣を作ろう」と悲鳴を上げる。これを繰り返して、結局、虚しい一生を過ごしてしまうのです。
 日蓮大聖人様は、「一切衆生もこれと同じである」と指摘されています。
 つまり、地獄に堕ちて、絶え間なく炎に焼き尽くされるような大苦悩を感じているときは、「次に人間に生まれた時は、何を差し置いても、絶対に仏法僧の三宝を供養して、後生の成仏を願っていこう」と思っているはずなのに、いざ人間界に生を受けると、名聞名利の心にとらわれたりして、なかなか仏道修行を貫くことができない、と言われているのです。
 なぜ、このようなことが起こるのかと言えば、それは、今生に生まれる以前に味わった、地獄の苦しみを忘れてしまっているからです。
 では、どうして、その記憶を失ってしまうのか、それは、次のような理由によるものといえるでしょう。
 我々が、この目で物を見て、耳で音を聞き、鼻で匂いをかいで、口で味わい、身体で触れる—-! この五感や、あるいは意識といった働きは、我々の生命の表層部分に具わった働きであり、これらは、死によって非情に切り替わると、一旦冥伏してしまいます。
 冥伏とは、元々はあるものが、表面に顕われないで、奥深く引っ込んでしまっている状態のことです。
 たとえば、”腹が立つ”という心は誰でも持っています。しかし、それは、いつも表面に出ているというわけではありません。では、いま現在、表面に出ていないからといって、無いのか、といえば、ある。あるけれども、引っ込んでいて、出てこない—-!こういう状態を”冥伏”といいます。つまり、先述した「空」の状態です。
 さて、死を迎えると同時に、我々の五感や意識は、生命の奥深く冥伏してしまいますから、死を経ることによって記憶が断絶してしまいます。(記憶は、五感や意識によって刻まれるものであるため)。そして、再び生を受けると、五感や意識の働きがそこからまた新しく始まるのです。
 だから、生命が三世にわたって続いている、等と言う事は、記憶から
なくなってしまっています。
 仮に過去世で、五感や意識を通じて得た記憶を、退行催眠によって、再び生命の奥から引き出すことが出来たとしましても、過去世からの死から今世の生までの間については、まったく記憶が途絶えている、といえましょう。また、もし、その記憶が何らかの理由で途絶えていなかった場合でも、地獄の苦しみだけは記憶の中に残らない、と考えられます。
 何故ならば人間には、嫌なことは忘れたい、という自己防衛本能があります。その、自己防衛本能が働いて、過去の地獄の苦しみを忘れ去ってしまう、と考えられるのです。前にも述べたように、地獄の苦しみは、その一端を述べただけでも、全身を炎で焼き尽くされるような苦しみであったりするわけですから、それはもう、気も狂わんばかりの苦しみです。まして、無間地獄などということになれば「聞いただけでもショック死する」—-! その大苦悩を自分が実際に味わって、それが記憶に残っていたとすれば、もう、それだけで生きていけなくなります。」 そこに、自ずと自己防衛本能が働いて、その記憶を封印し、抹消してしまう、といえるでありましょう。
 以上のような訳で、我々の記憶の中には、過去に味わったはずの地獄の記憶が残っていない—! 残っていないから、平気で謗法を犯してしまうのです。恐ろしいことです。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
「霊魂説」の誤りについて
 最近、世間では、「人間は死んだらどうなるのか」という話がブ-ムになっており、そういった研究をしている学者の本も出ています。
 それらの本の中には、「私は前世を見た」という体験や、「人間死んだら、魂が抜け出す」といったことが書かれています。単純に、前世があるとか、死後の来世があるということだけなら、問題がないのですが、それらの内容を見てみますと、道理から考えて明らかに間違っていることがたくさんあるのです。例えば、「人が亡くなると魂が抜け出して」という話についてですが、なぜ、そのような考え方が出てきたのかというと、仮死状態から息を吹き返した人が、其の間の記憶として、「身体から抜け出して、上から自分を見下ろしていた」と語った事を根拠としているようです。そして、人が死ぬと霊魂が抜け出して、ご遺体の三m(㍍)くらい上に,しばらくの間、止まっている,という話になったのです。しかも、その霊魂には三十五グラムの重さがある、とかいう説まであるのです。それは、死の間際の人間を体重計の上に乗せて置いた所、死んだ瞬間に体重が三十五グラム減ったから、これが霊魂の重さだ、という話のようです。しかし、この説は絶対に誤りです。
 もし、体重が三十五グラム減ったとすれば、何か別の要因、理由が有る筈です。例えば「亡くなると同時に失禁してしまった、その分が三十五グラムだった」とか—-! だいたい「身体の中から、三十五グラムの霊魂が抜け出した」というなら、その”霊魂”は重さを持った物質的な存在ということになります。質量を持っていますので物理的に観測できる事になります。今や、精密な電子顕微鏡が出来た事によって、微生物や細胞に至るまで、いや、分子や原子まで見ることが出来る時代です。それにもかかわらず、重さを持った霊魂など、観測できた事例は一つもありません。まったく不条理なはなしです。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
「十法界」御法主日顕上人猊下御講義集 より抜粋
地獄・餓鬼・畜生・修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏というのが十法界ですが、これは、華厳経に説かれております。このうち、貪りと瞋りと愚痴という三つの念慮に常に閉ざされているのが地獄の心であります。それから、名聞名利と言いまして、あらゆる権勢欲、名誉欲、物欲などを貪り、欲
するのは、餓鬼の心であります。また、自分の支配する者を多く求めていくのが畜生の心であると『魔訶止観』では説いております。さらに、他に勝れんとするのが修羅の心であります。次に、人間の心は、仁義礼智信等の道徳に基づく平らかな心であり、また、世間の一般的な、平和な意味からの遊楽を求める心でもあります。世間では、一家団らん、一家和楽ということも言われております。しかし、
一家和楽も結構だけれども、信心の根本を忘れて一家和楽と言っても、結局、根本の法につながっていないところでは、無数に起こってくる悪因や悪縁を正しく処理できないため、むしろおかしくなってしまうのであります。人間は毎日毎日の生活の中で、楽しいこともある反面、色々な苦しいこともでてくるのです。特に今の日本の国民などはマンネリズムになって、あまりに人間的な幸せだけに身体も心も慣れきってしまい、そのために余計なことをしてみたくなって、かえって色々な苦しみを作り上げている意味もあります。だから、人間界のところだけになずんでいて本当の幸せはないのであります。
 このような苦楽相半ばするところの人間の心に対して、天上の心において純善の果報による純粋な楽しみを得たいという気持ちをもっていくのが四天王天、忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天、他化自在天という欲界の六天であります。特に、大きな意欲をもって一切を従わしめようとする者が、第六天の魔王の心であります。
 さらに、今は末法ですからあまりいないように見えますが、欲の心は一切いやだという気持ちを持つ衆生がいるのです。つまり欲を離れて考えていくのは、欲界の上の色界、無色界、の天であり、三静慮と言われる味禅、浄禅、無漏禅という欲を離れた禅定なのです。すなわち、欲は粗、苦、障であると観ずるのです。つまり欲は粗っぽく粗末なものだから苦しいものであり、欲があると必ず苦があるという意味で、障りが必ず身体に来るものというように深く考えて向上の念を起こし、そしてそれを徹底して来る日も来る日も、一生、二生、生まれ変わり死に変わり、粗心が妙心に、苦境を楽境に、障りの身を浄身になるよう念じて欲から離れようと精進すると、必ず大梵天の色界へ行くのであり、さらに無色
界まで到達していく因縁果報が存するわけであります。次に、声聞、縁覚の二乗の心は、善悪の因果を正しく仏法の上から観じて、そして実際上のあらゆる欲望を破って空の悟りを求めていく心であります。
 次に、菩薩の心は慈悲の心であります。この慈悲に住すると四つの心を起こします。 その一つは、衆生無辺誓願度であり、無量無辺の多くの衆生を救っていこうという誓願であります。次が煩悩無数誓願断と言い、自分自身の心の中にあるところのたくさんの迷いの心をすべて解決をし、生命の正しい用きができるよう処理していこうという意味であります。
 それから、次は法門無尽誓願知ということで、あらゆる法門をことごとく学んでいこうという誓願であります。これは特に僧侶においては大事なことでありますが、皆様方もまた、仏法のこともあらゆる学術技芸も、もうこれでいいのだと思ってはいけません。そう思うことは、むしろ道を退き転じて、正しい方向から間違った方向へ進むことになります。したがって、常に正しい法を学んでゆこうという向上心が大切であります。
 そして最後が仏道無上誓願証で、仏の道において真の証りを得ようという意味の誓願であります。こういう四つの心を起こして、修行するのが菩薩の心であります。
 最後の仏の心は、法界の真如とぴったり一つになって、あらゆることに左右されることのない深い常寂の境界、つまり一切をことごとく包容しきったところの深さ、広さを持ち、それによってなんらの影響を受けることのない大きさをもっておるところの常、楽、我、浄の四徳が遍満しており、そして常に衆生を導かんとする大慈大悲に住しておるという心であります。
 以上のように十界を示されておりますが、大切なことは、また驚くべきことは、この最低より最高までの境界が、あらゆる生命の一心にことごとく具わっておるのであります。
 すなわち、この十法界を具している一心とは我々人間のみの心ではありません。この世の中には人間以外の生命がたくさんあります。我々は見ることができないけれども、仏教では天人がいるということも言われており、さらに畜生その他、地獄界の衆生もおります。
 皆さん方の中には地獄界の衆生などはないと思っている人が多いかも知れません。心の中にはあると言われているけれども、心以外のところに地獄などというものはないと思っている方もあるのではないでしょうか。しかし、それは違います。これは心に十界があるということをおっしゃっているのだから、それはそのまま、世の中に十界があるということなのです。ただ、そのほとんどが我々には見えないだけなのです。
 生命にも卵生、胎生、湿生、化生と四つあります。卵生は、卵から生まれる。湿生は黴菌のように湿ってじめじめした所から生まれる。胎生はお母さんのおなかから生まれるような生理現象の衆
生です。最後は化生と言いまして、これは化けると言うのですが、地獄界と餓鬼界の一部が化生であります。それから仏、菩薩の中にも化生があり、化生だから因縁によってときには出てはくるけれども、冥伏している面では見えません。けれども、存在することは事実なのです。
参考資料:広辞苑より
卵生=鳥などの卵から生まれたもの。
胎生=人や獣のように母胎で成熟して生まれるもの。
湿生=湿処から自然に発生すること。蚊などの虫の類
化生=母胎または、卵を通過せずに、超自然的に突然生まれること
 先日もちょっとテレビを見たらやっておりましたが、どこか他宗の尼さんが、わりに通力があって、報道機関の人と一緒になってどこかの墓地へ行ったらすごく身体がガタガタ震えておりました。そこにはすごい霊魂がいて、その霊魂を感じていたというのです。私は、あれは嘘ではないと思いますし、わだわだ演技しているわけでもないと思います。それは、この世の中には死んだ人の霊魂の中で、様々な因縁により、迷つたり、永劫に苦しんでいる人もいるわけです。これは地獄界、あるいは餓鬼界で存するのであります。すなわち、一心一念に具わる十界の外における法界には別在の十界が存するわけですから、我々生きている人間だけでなく、法界中の一切、十界の命の全部に十界が具わっておるのであります。
御法主日顕上人猊下御講義集より第一回法華講連合会夏期講習第四期抜粋
「死後の無差別」もありえない
 「死ねば皆、どんな人でも差別なく、一様に光の世界へ入って行く」
などという事も言われますが、これも絶対にありえません。もし、それがありえるのなら、なぜ、臨終の後の死相に,差別である、”地獄の相”と”成仏の相”の変化が出るのでしょうか。日蓮大聖人様は、「一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがへあつめて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこしもくもりなし」『妙法尼御前御返事』(御書
1482㌻) つまり、「一切の人の死ぬ時の状態、または死んだ後の死相の状態を、経典に照らしてみれば、一点の曇りもない。大謗法の者は皆、地獄の相になるし、正しい仏法を行じた者は、成仏の相を現ずるのである」と仰せられ、すべて、経典に説かれているとおりだ、と断ぜられています。 そして事実、我々も、其の例を数多く見てきております。その体験の上からいっても、まさに、本当に曇りがなく、経典に説かれているとおりなのです。
 であるならば、死後の生命は、その境涯に厳然たる差別があるはずです。因果の理の上からいっても、生前に悪事をなした者と善事をなした者が、死後に同じ果報を受けるなどということは、絶対にありません。悪因によって悪果が生じ、善因によって善果が生じる、と言うのが道理であって、悪因・善因も、死んでしまえば全て善果になるなどという、こんな馬鹿なことがある筈がないのです。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
死相は後生を顕す
”臨終の相”に対する批判として、「臨終の相が人によって違うのは、死後の状態を表しているとは限らない。あるいは、ただ生前の生き様の結果を表しているのかも知れないではないか」などと言う人もいます。
 死ぬ時の相に”成仏の相”と”地獄の相”の違いが有ると言うだけなら、そうも言えるかも知れませんが、しかし、堕獄の相で亡くなって、死後何時間か経っているご遺体であっても、正法で追善供養すれば、(成仏の相そのものとはいいませんが)きれいな相に変わっていくーーー!これも私達は何度も体験してきている現実です。 と言う事は、正法による供養で死後の生命が救われているからこそ、その生命と一番縁の深いご遺体に、そういう明らかな変化が出ている、としか考えられないではありませんか。 この事からも、仏法に説かれるとおり、確かに生命は死後にまで継続しているのであり、尚且つ、そこには堕獄や成仏の違い、差別が、厳然とあるのであります。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
死後の生命の記憶はない
多くの書物の中で、退行催眠(意識を過去へとさかのぼらせていって、忘れている記憶を引き出す、という催眠術) をかけられた人達が「自分は過去(生まれる前)に光の世界に行って来た」 という発言をしている、などとも書かれているようですが、これはいったい、どうゆう事なのか—–! 結論から言えば、死後の、六根(五感および意識の事。六識ともいう。)が冥伏している間の記憶が、ポッカリ消えている、ということです。
 以前にも少し触れたことですが、仏法上からいいますと、私達の生命の、一番表層の浅いところに「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六根があり、さらに、その奥に七識と呼ばれる無意識の領域や、八識と呼ばれる業を蓄積している領域などがありますが、死ぬことによって、一番表層にある、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根は冥伏してしまいます。
 従って、死後の状態には意識がありません。ただ受動的に苦しみを内感することがあっても、自分で物事を捉えて考えたりする意識というものは、なくなってしまい、全部、その奥の領域へと引っ込んでしまっているのです。これを、波に譬えてみますと、平らかな水面が、波が立って盛り上がる、盛り上がった波が、しばらく時間が経過するとまた元の水の中に引っ込んでしまう。—!それと同じように、我々有情として生きて活動をしている時は、七識もあり、六識もあり、表面にそういう生命活動が現われていて、いろいろな感覚器官が働いているわけです。
 しかし、死によって非情となれば、波がもう一度水面に引っ込んでいくように、六識の働きは七識・八識の奥に引っ込んで、冥伏してしまうわけです。ですから、意識の働かなくなった死後の状態の記憶など、残っている訳がないのです。そして皆、一様に、その部分の記憶がパッカリと白く抜けて断絶しているために、それが「光の世界」のような話になってしまってるのではないか、と考えられます。
 しかし、死後の意識や記憶がなかったとしても、八識のところに善業・悪業が貯蔵されていて、その果報として、厳然と死後の生命に地獄の苦るしみや成仏の安息があり、その違いが、現証として死相の上に現われてくるのです。
 この文証と道理と現証は明らかで、動かすことができません。ですから、”死ねば全て同じ光の世界へ行く” とか、”死後というのはすばらし世界だ”などという考え方は、まったく間違いであります。道理から言っても現証から言っても、これは否定されるべきことです。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋
浅見・偏見が謗法につながる
現在、世間において、そういう出版物が氾濫し、今までになく、多くの人々に受け容れられている、という状態が起きています。
 もし、正宗の信心している人が、これらの考え方に無条件に影響を受けていくと、どうなっていくでしょう。それは、外道の考え方(※道理に外れた教え、考え方のこと)に堕することになってしまいます。
 仏法では、死後を「空」として捉えるわけですが、「霊魂が抜け出して—-」という考え方は「空」ではなく、「有」—-つまり、その死後の霊魂に実体があるという考え方—でありまして、すでに釈尊が「空」の概念をもって、それを破しています。
 また、成仏や堕獄の違いはなくて、死ねば全てが光の世界に入っていく、などということを立てるとすれば、これは因果を断絶させることになり、因果無視になります。そして、当然、このような考え方が、仏道修行をしていく上において、浅識・計我といった謗法になることは間違いありません。
 もし、それらを信ずるなら、今度は徐々に仏法が信じられなくなっていきます。それが不信謗法を形成していくことになり、放っておくと、大変な誤りにまでなってしまうでしょう。従いまして、いくらブ-ムだからといって、興味半分でそういう本を読んで、無条件でその考え方を受け容れてしまったり、あるいは、その影響による小さな間違いを放っておくと、やがて大きな不信謗法を形成することになってしまうことがありますので、充分に注意していくべきであります。
 以上、縷々述べてきましたが、大聖人が
「先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(御書1482㌻)
と仰せのように、後生(死後)のことは、大変重要な問題であり、このことを弁えたならば、自ずから正法の信仰に励まざるをえません。正法を信仰する重大な目的、それが後生の成仏なのであります。
※ 監修 小川只道御尊師 過去世・現世・来世と続く三世の生命 抜粋

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