徳にも先天的に、その人が生まれつき身につけた「性徳」と後天的にその人の努力、修行によって身につけた「修徳」とがあります。
どちらも徳としてはこの上なく大事なことでありますが、この修性の二徳は『法華玄義釈篆』に、
「性は本爾なりと雖も、智に籍って修を起し、修に由って性を照し、性に山って修を発す。性に在るときは則ち修を全うして性を成じ、修を起すときは則ち性を全うして修を成ず」(玄義会本下201ページ)
と説かれ、この両者は一体不二の関係にあることが示されております。つまり、本来的に衆生には性徳が具わっておりますが、それは修行によって照らし出され、その性徳があるが故に修徳を起こすことができるのであると示されているのであります。したがって、妙楽大師はこのあとに、両者の関係は水と波の如き関係であると仰せであります。
しかし、我々の仏道修行の上から言えば、性徳を照らし出す修行こそ最も肝要であって、この仏道修行がなければ、性徳も修徳も共に顕れてこないのであります。よって、もし仮りに先天的に勝れた性徳を持っていたとしても、それだけでは徳としての用きはなく、また性徳だけでは、その人の人生は生
まれながらに確定してしまい、人間の幸、不幸は修正のきかない機械論的な運命論になってしまいます。これでは人間の努力が評価されない偏頗なことになってしまいます。
しかし、徳のなかには、仏道修行によって身につけることができる修徳があり、我々の努力精進によって人間は大きく変わっていけるのであります。
つまり、人間の幸、不幸は先天的に確定しているのではなく、仏道修行によて修徳を身につけ、これによって転迷開悟し、煩悩・業・苦の三道を、法身・般若・解脱の三徳と転ずることができるのであります。
しかして、その仏道修行とは、すなわち自行化他の信心であります。
〔平成十九年二月号25ページ〕