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お彼岸に六波羅蜜?ー仏教各派
諸宗教破折2
(大白法 令和4年3月16日号より転載)
お彼岸とは
お彼岸は、国内の仏教各派で、春分と秋分の日を中心に前後七日間、年に1回行われる行事である。先祖供養のため、塔婆供養やお墓参りをすることが通例となっている。
仏教一般では、私たちが生活する煩悩や苦しみが充満する婆婆世界を「此岸」に譬え、これに対して悟りの境界を「彼岸」とする。
この時期は、昼と夜の長さが同じであることから中道であり、この時に大乗の六波羅蜜、すなわち布施持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行の誓願を起こすことが、仏道修行を志す者にとって大切な意味を持つ、というようなことを言っているようだ。
六波羅蜜を実践?
禅宗系の臨済宗や曹洞宗のホームページを見ると、この彼岸に臨んで、「理想とする人間完成の悟りの世界『彼岸』に到るために実践しなければならない六つの徳目『六波羅蜜』を実践する期間なのです」と位置づけている。が、その一方で、
「それぞれに難しい修行になりますので、容易に完成することはかないませんけれども (後略)」
と、はなから諦めムードを漂わせてもいる。
それもそのはず。 法華経以前に説かれた四十余年の経々には、無量劫という長い期間、何度も生死を繰り返しながら六波羅蜜等の修行をして悟りを得たことが説かれている。
しかし末法の衆生は、そもそも機根が違うのだ。 末法に生きる私たちは爾前諸経に説かれる歴劫修行では極楽の彼岸に到ることは、到底叶わない。
日蓮大聖人は、
「生死の大海には爾前の経は或は械 或は小船なり。 生死の此の岸より生死の彼の岸には付くと雖も、生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとづきがたし」(御書三五〇)
と御教示である。
それを浄土宗では、「太陽が真西に沈むため、その方角にある阿弥陀さまの西方極楽浄土に想いを馳せるのに適した時期」などと言って念仏を唱えるよう勧める。 しかし浄土三部経も方便教。阿弥陀仏も西方極楽浄土も所詮は架空の迹仏・迹土に過ぎず、成仏が叶うはずもない。
さらに浄土真宗では、
「先祖供養は必要ありません」と耳目を疑う暴言を放ち、
「亡くなった人やご先祖様を仏様としていただいているからです」
と理由を述べ、お墓参りも、
「私たちがご先祖様から仏教を教えていただく、場となり百八十度逆になります」
と、先祖から仏教を教わる場という珍説を開陳する。
しかし、先の道理から言えば、そもそも権 教方便の教えで先祖が成仏するはずもなく、六道輪廻の先祖の皆が皆、法を説く仏に転ずるというのは、何をもって論拠としているのか知らないが、笑止千万である。
文底下種の妙法で成仏
総本山第二十六世日寛上人は『依義判文抄』に、
「末法の衆生は皆是れ本未有善にして最初下種の直機なり」(六巻抄110ページ)
と、末法の衆生は文底本因下種の妙法を植えられていない本未有善の機根であることから、久遠元初と同様に名字凡夫の本仏によって、本因下種の妙法が植えられなければ、即身成仏の本懐を得ることはできないと御指南されている。
大聖人が『秋元御書』で、
「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」(御書1448ページ)
と仰せのように、三世十方の諸仏は、この妙法蓮華経を修行し、これを種として成仏得道したと説かれている。同様に末法の私たちも、この本因下種の妙法を受持することによって、
「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」(同六五二ページ等)
と『観心本尊抄』に示されるように、成仏の「彼岸」、悟りの境界に到ることが叶うのである。
本門戒壇の大御本尊を無二に信じて、日々自行化他にわたる妙法を唱える修行の中にこそ、六波羅蜜が厳然と整足していることを知るべきである。