十法界事
正元元年 三八歳
二乗三界を出でざれば即ち十法界の数量を失ふ云云。
問ふ、十界互具を知らざる者、六道流転の分段の生死を出離して変易の土に生ずべきや。答ふ、二乗は既に見思を断じ三界の生因無し。底に由ってか界内の土に生ずることを得ん。是の故に二乗は永く六道に生ぜず。故に玄の第二に云はく「夫変易に生ずるに則ち三種有り。三蔵の二乗、通教の三乗、別教の三十心」已上。此くの如き等の人は皆通惑を断じ、変易の土に生ずることを得て、界内分段の不浄の国土に生ぜず。
難じて云はく、小乗の教は但是心生の六道を談じて是心具の六界を談ずるに非ず。是の故に二乗は六界を顕はさず、心具を談ぜず、云何ぞ但六界の見思を断じて六道を出ずべきや。故に寿量品に云へる一切世間天人阿修羅とは、爾前迹門両教の二乗三教の菩薩並びに五時の円人を皆天人・修羅と云ふ。豈未断見思の人と云ふに非ずや。答ふ、十界互具とは法華の淵底、此の宗の沖微なり。四十余年の諸経の中には之を秘して伝へず。但し四十余年の諸の経教の中に無数の凡夫見思を断じて無漏の果を得、能く二種の涅槃の無為を証し、塵数の菩薩通別の惑を断じ、頓に二種の生死の縛を超ゆ。無量義経の中に四十余年の諸経を挙げて、未顕真実と説くと雖も而も猶爾前三乗の益を許す。法華の中に於て正直捨方便と説くと雖も尚見諸菩薩授記作仏と説く。此くの如き等の文爾前の説に於て当分の益を許すに非ずや。但し爾前の諸経に二事を説かず、謂はく、実の円仏無く又久遠実成を説かず。故に等覚の菩薩に至るまで近成を執するの思ひ有り。此の一辺に於て天人と同じく能迷の門を挙げ、生死煩悩一時に断壊することを証せず。故に唯未顕真実と説けり。六界の互具を明かさざるが故に出づべからずとは此の難甚だ不可なり。六界互具せば即ち十界互具すべし。何となれば、権果の心生とは六凡の差別なり。心生を観ずるに何ぞ四聖の高下無からんや。
第三重の難に云はく、所立の義誠に道理有るに似たり。委しく一代聖教の前後を検するに、法華本門並びに観心の智慧を起こさざれば円仏と成らず。故に実の凡夫にして権果だも得ず。所以に彼の外道五天竺に出でて四顛倒を立つ。如来出世して四顛倒を破せんが為に苦空等を説く。此則ち外道の迷情を破せんが為なり。是の故に外道の我見を破して無我に住するは火を捨てゝ以て水に随ふが如し。堅く無我に執して見思を断じ六道を出ずると謂へり。此迷ひの根本なり。故に色心倶滅の見に住す。大集等の経々に断常の二見と説くは是なり。例せば有漏外道の自らは得道なりと念へども無漏智に望むれば未だ三界を出でざるが如し。仏教に値はずして三界を出ずるといはゞ是の処有ること無し。小乗の二乗も亦復是くの如し。鹿苑施小の時には外道の我を離れて無我の見に住す。此の情を改めずして四十余年、草庵に止宿するの思ひには暫くも離るゝ時無し。又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず。又或時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む。是の故に自ら念はく、三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生まるべしと。然るに九界を滅すれば是則ち断見なり。進んで仏界に昇れば即ち常見と為す。九界の色心の常住を滅すと欲ふは豈九法界に迷惑するに非ずや。
又妙楽大師云はく「但し心を観ずと言はゞ則ち理に称はず」文。此の釈の意は、小乗の観心は小乗の理に称はざるのみ。又天台の文句第九に云はく「七方便並びに究竟の滅に非ず」已上。此の釈は是爾前の前三教の菩薩は実には不成仏と云へるなり。但し未顕真実と説くと雖も三乗の得道を許し、正直捨方便と説くと雖も而も見諸菩薩授記作仏と云ふは、天台宗に於て三種の教相有り。第二の化導の始終の時、過去の世に於て法華結縁の輩有り。爾前の中に於て且く法華の為に三乗当分の得道を許す。所謂種熟脱の中の熟益の位なり。是は尚迹門の説なり。本門観心の時は是実義に非ず。一往許すのみ。其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷ひ、一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ずべからず。故に釈に云はく「円乗の外を名づけて外道と為す」文。又「諸善男子楽於小法得薄垢重者」と説く。若し爾れば経釈共に道理必然なり。答ふ、執難有りと雖も其の義不可なり。所以は如来の説教は機に備はりて虚しからず。是を以て頓等の四教、蔵等の四教は八機の為に設くる所にして得益無きに非ず。故に無量義経には「是の故に衆生の得道差別あり」と説く。誠に知んぬ、「終に無上菩提を成ずることを得ず」と説くと雖も而も三法四果の益無きに非ず。但是速疾頓成と歴劫迂回との異なりなるのみ。是一向に得道無きに非ざるなり。是の故に或は三明六通も有り、或は普現色身の菩薩も有り、縦ひ一心三観を修して以て同体の三惑を断ぜざれども既に折智を以て見思を断ず。何ぞ二十五有を出でざらん。是の故に解釈に云はく「若し衆生に遇って小乗を修せしめば我則ち慳貪に堕せん。此の事不可なりと為す。祇二十五有を出づ」已上。
当に知るべし、此の事を不可と説くと雖も而も出界有り。但是不思議の空を観ぜざるが故に不思議の空智を顕はさずと雖も何ぞ小分の空解を起こさざらん。若し空智を以て見思を断ぜずと云はゞ開善の無声聞の義に同ずるに非ずや。況んや今経は正直捨権純円一実の説なり。諸の爾前の声聞の得益を挙げて「諸漏已に尽きて復煩悩無し」と説き、又「実に阿羅漢を得、此の法を信ぜず是の処有ること無し」と云ひ、又「三百由旬を過ぎて一城を化作す」と説く。若し諸の声聞全く凡夫に同ぜば五百由旬一歩も行くべからず。又云はく「自ら所得の功徳に於て滅度の想ひを生じて当に涅槃に入るべし。我余国に於て作仏して更に異名有らん。是の人滅度の想ひを生じて涅槃に入ると雖も而も彼の土に於て仏の智慧を求めて是の経を聞くことを得ん」已上。此の文既に証果の羅漢法華の座に来たらずして無余涅槃に入り方便土に生じて法華を説くを聞くと見えたり。若し爾らば既に方便土に生じて何ぞ見思を断ぜざらん。是の故に天台妙楽も「彼土得聞」と釈す。又爾前の菩薩に於て「始めて我が身を見、我が所説を聞いて即ち皆信受し如来慧に入りにき」と説く。故に知んぬ、爾前の諸の菩薩三惑を断除して仏慧に入ることを。
故に解釈に云はく「初後の仏慧円頓の義斉し」已上。或は云はく「故に始終を挙ぐるに意仏慧に在り」と。若し此等の説相経釈共に非義ならば正直捨権の説・唯以一大事の文・妙法華経皆是真実の証誠皆以て無益なり。皆是真実の言は豈一部八巻に亘るに非ずや。釈迦多宝十方分身の舌相至梵天の神力・三世諸仏の誠諦不虚の証誠空しく泡沫に同ぜん。但し小乗の断常の二見に至っては且く大乗に対して小乗を以て外道に同ず。小益無きに非ざるなり。又「七方便並びに究竟の滅に非ず」の釈、或は復「但し心を観ずと言はゞ則ち理に称はず」とは、又是円実の大益に対して七方便の益を下して並びに非究竟滅・即不称理と釈するなり。
第四重の難に云はく、法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取って掌中に捧ぐるが如し。所以は何ん。迹門の大教起これば爾前の大教亡じ、本門の大教起これば迹門爾前亡じ、観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず。此は是如来所説の聖教、従浅至深して次第に迷ひを転ずるなり。然れども如来の説は一人の為にせず。此の大道を説きて迷情除かざれば生死出で難し。若し爾前の中に八教有りとは頓は則ち華厳、漸は則ち三味、秘密と不定とは前四味に亘る。蔵は則ち阿含方等に亘る、通は是方等般若、円別は是則ち前四味の中に鹿苑の説を除く。此くの如く八機各々不同なれば教説も亦異なるなり。四教の教主亦是不同なれば当教の機根余仏を知らず。故に解釈に云はく「各々仏独り其の前に在すと見る」已上。人天の五戒十善・二乗の四諦十二・菩薩の六度三祇百劫或は動喩塵劫或は無量阿僧祇劫・円教の菩薩の初発心時便成正覚。明らかに知んぬ、機根別なるが故に説教も亦別なり。教別なるが故に行も亦別なり。行別なるが故に得果も別なり。此則ち各別の得益にして不同なり。
然るに今法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説きたまふ。爾の時八機並びに悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り、互ひに五眼を具し、一界に十界を具し、十界に百界を具せり。是の時爾前の諸経を思惟するに諸経の諸仏は自界の二乗を、二乗は又菩薩界を具せず。三界の人天の如きは成仏の望み絶えて二乗菩薩の断惑即ち是自身の断惑なりと知らず、二乗四乗の智慧は四悪趣を脱るゝに似たりと雖も互ひに界々を隔て而も皆是一体なり。昔の経は二乗は但自界の見思を断除すと思ひて六界の見思を断ずることを知らず。菩薩も亦是くの如し。自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も六界・二乗の三惑を断ずることを知らず。真実に証する時、一衆生即十衆生、十衆生即一衆生なり。若し六界の見思を断ぜざれば二乗の見思を断ずべからず。是くの如く説くと雖も迹門は但九界の情を改め十界互具を明かす。故に即ち円仏と成るなり。爾前当分の益を嫌ふこと無きが故に「三界の諸漏已に尽き三百由旬を過ぎて始めて我が身を見る」と説けり。又爾前入滅の二乗は実には見思を断ぜず。故に六界を出でずと雖も迹門は二乗作仏の本懐なり。故に「彼の土に於て是の経を聞くことを得」と説く。既に「彼の土に聞くことを得」と云ふ。故に知んぬ、爾前の諸経には方便土無し。故に実には実報並びに常寂光無し。菩薩の成仏を明かす。故に実報寂光を仮立す。然れども菩薩に二乗を具す。二乗成仏せずんば菩薩も成仏すべからざるなり。衆生無辺誓願度も満ぜず。二乗の沈空尽滅は即ち是菩薩の沈空尽滅なり。凡夫六道を出でざれば二乗も六道を出づべからず。尚下劣の方便土を明かさず。況んや勝れたる実報寂光を明かさんや。実に見思を断ぜば何ぞ方便を明かさざらん。菩薩実に実報寂光に至らば何ぞ方便土に至ること無からん。
但断無明と云ふが故に仮に実報寂光を立つと雖も、而も上の二土無きが故に同居の中に於て影現の実報寂光を仮立す。然るに此の三百由旬は実には三界を出ずること無し。迹門には但是始覚の十界互具を説きて未だ必ずしも本覚本有の十界互具を明さず。故に所化の大衆・能化の円仏皆是悉く始覚なり。若し爾らば本無今有の失何ぞ免るゝことを得んや。当に知るべし、四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり。是の故に無始の本仏を知らず。故に無始無終の義欠けて具足せず。又無始色心常住の義無し。但し「是法住法位」と説くことは、未来常住にして是過去常に非ざるなり。本有の十界互具を顕はさざれば本有大乗菩薩界無きなり。故に知んぬ、迹門の二乗は未だ見思を断ぜず、迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず、六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり。故に涌出品に至って爾前迹門の断無明の菩薩を「五十小劫半日の如しと謂へり」と説く。是則ち寿量品の久遠円仏の非長非短不二の義に迷ふが故なり。
爾前迹門の断惑とは外道の有漏断の退すれば起こるが如し。未だ久遠を知らざるを以て而も惑者の本と為すなり。故に四十一品断の弥勒、本門立行の発起・影響・当機・結縁の地涌千界の衆を知らず。既に一分の無始の無明を断じて而も十界の一分の無始の法性を得たり、何ぞ等覚の菩薩を知らざらん。設ひ等覚の菩薩を知らざれども争でか当機結縁の衆を知らざらん。「乃し一人をも識らず」の文は最も未断三惑の故か。是を以て本門に至り則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加へ、又天人修羅に摂し「貪著五欲、妄見網中・為凡夫顛倒」と説く。釈の文には「我坐道場、不得一法」と云ふ。蔵通両仏の見思断も、別円二仏の無明断も、並びに皆見思無明を断ぜず。故に随他意と云ふ。所化の衆生三惑を断ずと謂へるは是実の断に非らず。答への文に開善の無声聞の義に同ずとは汝も亦光宅の有声聞の義に同ずるか。天台は有無共に破すなり。開善は爾前に於て無声聞を判じ、光宅は法華に於て有声聞を判ず。故に有無共に難有り。天台は爾前には則ち有り、今経には則ち無し。所化の執情には則ち有り、長者の見には則ち無し。此くの如き破文皆是爾前迹門相対の釈にて有無共に今の難に非ざるなり。但し「七方便並びに究竟の滅に非ず。又「但し心を観ずと言はゞ則ち理に称はず」との釈は、円益に対し当分の益を下して「並非究竟滅」「即不称理」と云ふなりと云はゞ、金論の「偏に清浄の真如を指す、尚小の真を失へり、仏性安んぞ在らん」と云ふ釈をば云何が会すべき。但し此の「尚小の真を失へり」の釈は常には出だすべからず、最も秘蔵すべし。
但し妙法蓮華経皆是真実の文を以て迹門に於て爾前の得道を許すが故に爾前得道の義有りといふは、此は是迹門を爾前に対して真実と説くか。而も未だ久遠実成を顕はさず、是則ち彼の未顕真実の分域なり。所以に無量義経に大荘厳等の菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを、仏の答ふるに未顕真実の言を以てす。
又涌出品の中に弥勒疑って云はく「如来太子為りし時釈の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、乃至四十余年を過ぐ」已上。仏答へて云はく「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からずして三菩提を得たりと謂へり、我実に成仏してより以来」已上。我実成仏とは寿量品已前を未顕真実と云ふに非ずや。是の故に記の九に云はく「昔七方便より誠諦に至るまでは七方便の権と言ふは且く昔の権に寄す。若し果門に対すれば権実倶に是随他意なり」已上。此の釈は明らかに知んぬ、迹門をも尚随他意と云ふなり。寿量品の皆実不虚を天台釈して云はく「円頓の衆生に約すれば迹本二門に於て一実一虚なり」已上。記の九に云はく「故に知んぬ、迹の実は本に於て猶虚なり」已上。迹門既に虚なること論に及ぶべからず。但し皆是真実とは、若し本門に望むれば迹は是虚なりと雖も一座の内に於て虚実を論ず、故に本迹両門倶に真実と言ふなり。例せば迹門法説の時、譬説・因縁の二周も此の一座に於て聞知せざること無し、故に名づけて顕と為すが如し。記の九に云はく「若し方便教は二門倶に虚なり。因門開し竟はりて果門に望むれば則ち一実一虚なり。本門顕はれ竟はれば則ち二種
倶に実なり」已上。此の迹の意は、本門未だ顕はれざる以前は本門に対すれば尚迹門を以て名づけて虚と為す、若し本門顕はれ已はりぬれば迹門の仏因は則ち本門の仏果なるが故に、天月・水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕はるゝなり。一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因と言ひ、一切衆生の本覚を名づけて本門の円果と為す。修一円因感一円果とは是なり。是くの如く法門を談ずるの時、迹門爾前は若し本門顕はれざれば六道を出でず、何ぞ九界を出でんや。