文永一〇年五月二八日 五二歳
御法門の事委しく承り候ひ畢んぬ。法華経の功徳と申すは唯仏与仏の境界、十方分身の智慧も及ぶか及ばざるかの内証なり。されば天台大師も妙の一字をば、妙とは妙は不可思議に名づくと釈し給ひて候なるぞ。前々御存知の如し。然れども此の経に於て重々さきざきの修行分かれたり。天台・妙楽・伝教等計りしらせ給ふ法門なり。就中伝教大師は天台の後身にて渡らせ給へども、人の不審を晴らさんとや思し食しけん、大唐へ決をつかはし給ふ事多し。されば今経の所詮は十界互具・百界千如・一念三千と云ふ事こそゆゝしき大事にては候なれ。此の法門は摩訶止観と申す文にしるされて候。
次に寿量品の法門は日蓮が身に取ってたのみあることぞかし。天台・伝教等も粗しらせ給へども言に出だして宣べ給はず。竜樹・天親等も亦是くの如し。寿量品の自我偈に云はく「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云 。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せ
る事此の経文なり、秘すべし秘すべし。叡山の大師渡唐して此の文の点を相伝し給ふ処なり。一とは一道清 浄の義、心とは諸法なり。されば天台大師心の字を釈して云はく「一月三星心果清浄」云云 。日蓮云はく、一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり。此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり。一心に仏を見る、心を一にして仏を見る、一心を見れば仏なり。無作の三身の仏果を成就せん事は、恐らくは天台・伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり。相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり。法華経の御為に身をも捨て命をも惜しまざれと強盛に申せしは是なり。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
文永十年五月廿八日 日 蓮 花
義浄房御返事