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報恩抄

御書2

報恩抄  建治二年七月廿一日  五五歳
夫老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや。されば古の賢者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり。いかにいわうや仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや。此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか。譬へば衆盲をみちびかんには生盲の身にては橋河をわたしがたし。方風を弁へざらん大舟は、諸商を導きて宝山にいたるべしや。仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとをもう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云はく「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。  かくのごとく存じて父母・師匠等に随はずして仏法をうかヾいし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり。所謂倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。世間の学者等をもえり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照らせりと。小乗の三宗はしばらくこれををく。民の消息の是非につけて、他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ生死の大海をわたりて浄土の岸につく大船なれば、此を習ひほどひて我がみも助け、人をもみちびかんとをもひて習ひみるほどに、大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心はえたれえたれ等云云。所謂華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等。此等の宗々みな本経本論によりて我も我も一切経をさとれり仏意をきわめたりと云云。彼の人々の云はく、一切経の中には華厳経第一なり。法華経・大日経等は臣下のごとし。真言宗の云はく、一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星のごとし。禅宗が云はく、一切経の中には楞伽経第一なり。乃至余宗かくのごとし。而も上に挙ぐる諸師は世間の人々各々おもえり。諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随ふがごとし。我等凡夫はいづれの師なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰いでこそ信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし。世間をみるに各々我も我もといへども国主は但一人なり、二人となれば国土おだやかならず。家に二の主あれば其の家必ずやぶる。一切経も又かくのごとくや有るらん。何れの経にてもをはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふところに一つの願を立つ。我八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云はく「法に依って人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。此の経に又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。 随って法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。此の経文のごとくば須弥山の頂に帝釈の居るがごとく、輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく、衆木の頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂上に肉髻の住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。されば専ら論師・人師をすてヽ経文に依るならば大日経・華厳経等に法華経の勝れ給へることは、日輪の青天に出現せる時、眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり。 又大日経・華厳経等の一切経をみるに此の経文に相似の経文一字一点もなし。或は小乗経に対して勝劣をとかれ、或は俗諦に対して真諦をとき、或は諸の空仮に対して中道をほめたり。譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし。法華経は諸王に対して大王等と云云。但涅槃経計りこそ法華経に相似の経文は候へ。されば天台已前の南北の諸師は迷惑して、法華経は涅槃経に劣ると云云。されども専ら経文を開き見るには無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経々をあげて、涅槃経に対して我がみ勝るととひて、又法華経に対する時は「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記を授くることを得て大果実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。我と涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明なれども南北の大智の諸人の迷ふて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとヾむべし。此の経文は但法華経・涅槃経の勝劣のみならず、十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし。而るを経文にこそ迷ふとも天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は眼あらん人々はしりぬべき事ぞかし。然れども天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし、いわうや余宗の人々をや。 或人疑って云はく、漢土日本にわたりたる経々にこそ法華経に勝れたる経はをはせずとも、月氏・竜宮・四王・日月・・利天・兜率天なんどには恒河沙の経々ましますなれば、其の中に法華経に勝れさせ給ふ御経やましますらん。答へて云はく、一をもって万を察せよ。庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり。癡人が疑って云はく、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より外の別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。法華経の法師品に、釈迦如来金口の誠言をもて五十余年の一切経の勝劣を定めて云はく「我が所説の経典は無量千万億にして已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経は最も為れ難信難解なり」等云云。此の経文は但釈迦如来一仏の説なりとも、等覚已下は仰ぎて信ずべき上、多宝仏東方より来たりて真実なりと証明し、十方の諸仏集まりて釈迦仏と同じく広長舌を梵天に付け給ひて後、各々国々へかへらせ給ひぬ。已今当の三字は、五十年並びに十方三世の諸仏の御経一字一点ものこさず引き載せて、法華経に対して説かせ給ひて候を、十方の諸仏此の座にして御判形を加へさせ給ひ、各々又自国に還らせ給ひて、我が弟子等に向かはせ給ひて、法華経に勝れたる御経ありと説かせ給はヾ、其の土の所化の弟子等信用すべしや。又我は見ざれば、月氏・竜宮・四天・日月等の宮殿の中に、法華経に勝れさせ給ひたる経やおはしますらんと疑ひをなさば、反詰して云へ、されば今の梵釈・日月・四天・竜王は、法華経の御座にはなかりけるか。若し日月等の諸天、法華経に勝れたる御経まします、汝はしらず、と仰せあるならば大誑惑の日月なるべし。日蓮せめて云はく、日月は虚空に住し給へども、我等が大地に処するがごとくして堕落し給はざる事は、上品の不妄語戒の力ぞかし。法華経に勝れたる御経ありと仰せある大妄語あるならば、恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに、大地の上にどうとおち候はんか。無間大城の最下の堅鉄にあらずば留まりがたからんか。大妄語の人は須臾も空に処して四天下を廻り給ふべからずと、せめたてまつるべし。而るを華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵・大師等の、華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給ふは、我等が分斉には及ばぬ事なれども、大道理のをす処は、豈諸仏の大怨敵にあらずや。提婆・瞿伽梨もものならず。大天・大慢外にもとむべからず。彼の人々を信ずる輩はをそろしをそろし。 問うて云はく、華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏、乃至弘法・慈覚・智証等を、仏の敵との給ふか。答へて云はく、此大なる難なり。仏法に入りて第一の大事なり。愚眼をもて経文を見るには、法華経に勝れたる経ありといはん人は、設ひいかなる人なりとも謗法は免れじと見えて候。而るを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人仏敵たらざるべき。若し又をそれをなして指し申さずば、一切経の勝劣空しかるべし。又此の人々を恐れて、末の人々を仏敵といはんとすれば、彼の宗々の末の人々の云はく、法華経に大日経をまさりたりと申すは我私の計らひにはあらず、祖師の御義なり。戒行の持破、智慧の勝劣、身の上下はありとも、所学の法門はたがふ事なしと申せば、彼の人々にとがなし。又日蓮此を知りながら人々を恐れて申さずば「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さヾれ」の仏陀の諫暁を用ゐぬ者となりぬ。いかんがせん、いはんとすれば世間をそろし、黙示さんとすれば仏の諫曉のがれがたし。進退此に谷まれり。宜なるかなや、法華経の文に云はく「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し。況んや滅度の後をや」と。又云はく「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。 釈迦仏を摩耶夫人はらませ給ひたりければ、第六天の魔王、摩耶夫人の御腹をとをし見て、我等が大怨敵法華経と申す利剣をはらみたり。事の成ぜぬ先にいかにしてか失ふべき。第六天の魔王、大医と変じて浄飯王宮に入り、御産安穏の良薬を持ち候大医ありとのヽしりて、大毒を后にまいらせつ。初生の時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を出でさせ給ひしかば黒き毒蛇と変じて道にふさがり、乃至提婆・瞿伽梨・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入りて、或は大石をなげて仏の御身より血をいだし、或は釈子をころし、或は御弟子等を殺す。此等の大難は皆遠くは法華経を仏世尊に説かせまいらせじとたばかりし、如来現在猶多怨嫉の大難ぞかし。此等は遠き難なり。近き難には舎利弗・目連・諸大菩薩等も四十余年が間は、法華経の大怨敵の内ぞかし。況滅度後と申して、未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべしと、とかれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大なる大難にてあるべかんなり。いかなる大難か、提婆が長三丈、広さ一丈六尺の大石、阿闍世王の酔象にはすぐべきとはをもへども、彼にもすぐるべく候なれば、小失なくとも大難に度々値ふ人をこそ、滅後の法華経の行者とはしり候わめ。付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使なり。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ、仏陀蜜多・竜樹菩薩等は赤幡を七年・十二年さしとをす。馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論師はをもひじにヽ死す。此等は正法一千年の内なり。 像法に入って五百年、仏滅後一千五百年と申せし時、漢土に一人の智人あり。始は智・、後には智者大師とがうす。法華経の義をありのまヽに弘通せんと思ひ給ひしに、天台已前の百千万の智者しなじなに一代を判ぜしかども、詮じて十流となりぬ。所謂南三北七なり。十流ありしかども一流をもて最とせり。所謂南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり。此の人は一代の仏教を五にわかつ。其の五つの中に三経をえらびいだす。所謂華厳経・涅槃経・法華経なり。一切経の中には華厳経第一、大王のごとし。涅槃経第二、摂政関白のごとし。第三法華経は公卿等のごとし。此より已下は万民のごとし。此の人は本より智慧かしこき上、慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者より習ひ伝へ給はるのみならず、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわりて法華経・涅槃経・華厳経の功をつもりし上、梁の武帝召し出だして、内裏の内に寺を立て、光宅寺となづけて此の法師をあがめ給ふ。法華経をかうぜしかば天より花ふること在世のごとし。天監五年に大旱魃ありしかば、此の法雲法師を請じ奉りて法華経を講ぜさせまいらせしに、薬草喩品の「其雨普等・四方倶下」と申す二句を講ぜさせ給ひし時、天より甘雨下りたりしかば天子御感のあまりに現に僧正になしまいらせて、諸天の帝釈につかえ、万民の国王ををそるヽがごとく我とつかへ給ひし上、或人夢みらく、此の人は過去の灯明仏の時より法華経をかうぜる人なり。法華経の疏四巻あり。此の疏に云はく「此の経未だ碩然ならず」と。亦云はく「異の方便」等云云。正しく法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候。此の人の御義仏意に相ひ叶ひ給ひければこそ、天より花も下り雨もふり候ひけらめ。かヽるいみじき事にて候ひしかば、漢土の人々、さては法華経は華厳経・涅槃経には劣るにてこそあるなれと思ひし上、新羅・百済・高麗・日本まで此の疏ひろまりて、大体一同の義にて候ひしに、法雲法師御死去ありていくばくならざるに、梁の末、陳の始めに、智・法師と申す小僧出来せり。南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども、師の義も不審にありけるかのゆへに、一切経蔵に入って度々御らんありしに、華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし、此の三経の中に殊に華厳経を講じ給ひき。別して礼文を造りて日々に功をなし給ひしかば、世間の人をもはく、此の人も華厳経を第一とをぼすかと見えしほどに、法雲法師が、一切経の中に華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたるが、あまりに不審なりける故に、ことに華厳経を御らんありけるなり。かくて一切経の中に、法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給ひてなげき給ふやうは、如来の聖教は漢土にわたれども人を利益することなし。かへりて一切衆生を悪道に導くこと人師の誤りによれり。例せば国の長とある人、東を西といゐ、天を地といゐいだしぬれば万民はかくのごとくに心うべし。後にいやしき者出来して、汝等が西は東、汝等が天は地なりといわばもちうることなき上、我が長の心に叶はんがために今の人をのりうちなんどすべし。いかんがせんとはをぼせしかども、さてもだすべきにあらねば、光宅寺の法雲法師は謗法によて地獄に堕ちぬとのヽしらせ給ふ。其の時南北の諸師はちのごとく蜂起し、からすのごとく烏合せり。智・法師をば頭をわるべきか国をうべきか、なんど申せし程に、陳主此をきこしめして南北の数人に召し合わせて、我と列座してきかせ給ひき。法雲法師が弟子等慧栄・法歳・慧曠・慧なんど申せし僧正・僧都已上の人々百余人なり。各々悪口を先とし、眉をあげ眼をいからし手をあげ拍子をたヽく。而れども智・法師は末座に坐して、色を変ぜず言を誤らず威儀しづかにして諸僧の言を一々に牒をとり、言ごとにせめかへす。をしかへして難じて云はく、抑法雲法師の御義に第一華厳・第二涅槃・第三法華と立てさせ給ひける証文は何れの経ぞ、慥かに明らかなる証文を出ださせ給へとせめしかば、各々頭をうつぶせ色を失ひて一言の返事なし。重ねてせめて云はく、無量義経に正しく「次説方等十二部経・摩訶般若・華厳海空」等云云。仏、我と華厳経の名をよびあげて、無量義経に対して未顕真実と打ち消し給う。法華経に劣りて候無量義経に華厳経はせめられて候。いかに心えさせ給ひて、華厳経をば一代第一とは候ひけるぞ。各々御師の御かたうどせんとをぼさば、此の経文をやぶりて、此に勝れたる経文を取り出だして、御師の御義を助け給へとせめたり。 又涅槃経を法華経に勝ると候ひけるは、いかなる経文ぞ。涅槃経の第十四には華厳・阿含・方等・般若をあげて、涅槃経に対して勝劣は説かれて候へども、またく法華経と涅槃経との勝劣はみへず。次上の第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり。所謂経文に云はく「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞、記を受くることを得て大菓実を成ずるが如し、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。経文明らかに諸経をば春夏と説かせ給ひ、涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども、法華経をば秋収冬蔵大菓実の位、涅槃経をば秋の末冬の始め・拾の位と定め給ひぬ。此の経文、正しく法華経には我が身劣ると、承伏し給ひぬ。法華経の文には已説・今説・当説と申して、此の法華経は前と並びとの経々に勝れたるのみならず、後に説かん経々にも勝るべしと仏定め給ふ。すでに教主釈尊かく定め給ひぬれば疑ふべきにあらねども、我が滅後はいかんがと疑ひおぼして、東方宝浄世界の多宝仏を証人に立て給ひしかば、多宝仏大地よりをどり出でて「妙法華経皆是真実」と証し、十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給ひ、広長舌を大梵天に付け又教主釈尊も付け給ふ。然して後、多宝仏は宝浄世界えかへり十方の諸仏各々本土にかへらせ給ひて後、多宝・分身の仏もをはせざらんに、教主釈尊、涅槃経をといて法華経に勝ると仰せあらば、御弟子等は信ぜさせ給ふべしやとせめしかば、日月の大光明の修羅の眼を照らすがごとく、漢王の剣の諸侯の頚にかヽりしがごとく、両眼をとぢ一頭を低れたり。天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし、鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり。かくのごとくありしかば、さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと震旦一国に流布するのみならず、かへりて五天竺までも聞こへ、月氏大小の諸論も智者大師の御義には勝たれず、教主釈尊両度出現しましますか、仏教二度あらわれぬとほめられ給ひしなり。 其の後天台大師も御入滅なりぬ。陳隋の世も代はりて唐の世となりぬ。章安大師も御入滅なりぬ。天台の仏法やうやく習ひ失せし程に、唐の太宗の御宇に玄奘三蔵といゐし人、貞観三年に始めて月氏に入り同十九年にかへりしが、月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申す宗をわたす。此の宗は天台宗と水火なり。而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして、法華経は一切経には勝れたれども深密経には劣るという。而るを天台は御覧なかりしかば、天台の末学等は智慧の薄きかのゆへにさもやとをもう。又太宗は賢王なり、玄奘の御帰依あさからず、いうべき事ありしかども、いつもの事なれば時の威ををそれて申す人なし。法華経を打ちかへして三乗真実・一乗方便・五性各別と申せし事は心うかりし事なり。天竺よりはわたれども月氏の外道が漢土にわたれるか。法華経は方便、深密経は真実といゐしかば、釈迦・多宝・十方の諸仏の誠言もかへりて虚しくなり、玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にてはありしか。 其の後則天皇后の御宇に、前に天台大師にせめられし華厳経に、又重ねて新訳の華厳経わたりしかば、さきのいきどをりをはたさんがために、新訳の華厳をもって、天台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて、華厳宗と申す宗を法蔵法師と申す人立てぬ。此の宗は華厳経をば根本法輪、法華経をば枝末法輪と申すなり。南北は一華厳・二涅槃・三法華、天台大師は一法華・二涅槃・三華厳、今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。 其の後玄宗皇帝の御宇に、天竺より善無畏三蔵大日経・蘇悉地経をわたす。金剛智三蔵は金剛頂経をわたす。又金剛智三蔵に弟子あり不空三蔵なり。此の三人は月氏の人、種姓も高貴なる上、人がらも漢土の僧ににず。法門もなにとはしらず、後漢より今にいたるまでなかりし印と真言という事をあひそいてゆヽしかりしかば、天子かうべをかたぶけ万民掌をあわす。此の人々の義にいわく、華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内、釈迦如来の説の分なり。今の大日経等は大日法王の勅言なり。彼の経々は民の万言、此の経は天子の一言なり。華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立てヽも及ばず。但法華経計りこそ大日経には相似の経なれ。されども彼の経は釈迦如来の説、民の正言、此の経は天子の正言なり。言は似たれども人がら雲泥なり。譬へば濁水の月と清水の月のごとし。月の影は同じけれども水に清濁ありなんど申しければ、此の由尋ね顕はす人もなし。諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ。善無畏・金剛智死去の後、不空三蔵又月氏にかへりて、菩提心論と申す論をわたし、いよいよ真言宗盛りなりけり。但し妙楽大師と云ふ人あり。天台大師よりは六代二百余年の後なれども智慧賢き人にて、天台の所釈を見明らめてをはせしかば、天台の釈の心は後に渡れる深密経・法相宗、又始めて漢土に立てたる華厳宗、大日経・真言宗にも法華経は勝れさせ給ひたりけるを、或は智慧の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故に云はざりけるか。かうてあるならば天台の正義すでに失せなん。又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとをぼして三十巻の末文を造り給ふ。所謂弘決・釈籖・疏記これなり。此の三十巻の文は本書の重なれるをけづり、よわきをたすくるのみならず、天台大師の御時なかりしかば、御責めにものがれてあるやうなる法相宗と、華厳宗と、真言宗とを、一時にとりひしがれたる書なり。 又日本国には、人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、百済国より一切経・釈迦仏の像をわたす。又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ、和気妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、其の後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に律宗わたる。已上六宗なり。孝徳より人王第五十代の桓武天王にいたるまでは十四代一百二十余年が間は天台・真言の二宗なし。  桓武の御宇に最澄と申す小僧あり。山階寺の行表僧正の御弟子なり。法相宗を始めとして六宗を習ひきわめぬ。而れども仏法いまだ極めたりともをぼえざりしに、華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給うに、天台大師の釈を引きのせたり。此の疏こそ子細ありげなれ。此の国に渡りたるか、又いまだわたらざるかと不審ありしほどに、有る人にとひしかば、其の人の云はく、大唐の揚州竜興寺の僧鑑真和尚は天台の末学道暹律師の弟子、天宝の末に日本国にわたり給ひて、小乗の戒を弘通せさせ給ひしかども、天台の御釈を持ち来たりながらひろめ給はず。人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかたる。其の書を見んと申されしかば、取り出だして見せまいらせしかば、一返御らんありて生死の酔ひをさましつ。此の書をもって六宗の心を尋ねあきらめしかば、一々に邪見なる事あらはれぬ。忽ちに願を発して云はく、日本国の人皆謗法の者の檀越たるが、天下一定乱れなんずとをぼして六宗を難ぜられしかば、七大寺六宗の碩学蜂起して、京中烏合し、天下みなさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。而るを去ぬる延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等十有余人を召し合はす。華厳・三論・法相等の人々、各々我が宗の元祖が義にたがはず。最澄上人は六宗の人々の所立一々に牒を取りて、本経本論並びに諸経諸論に指し合はせてせめしかば一言も答えず、口をして鼻のごとくになりぬ。天皇をどろき給ひて、委細に御たづねありて、重ねて勅宣を下して十四人をせめ給ひしかば、承伏の謝表を奉りたり。其の書に云はく「七箇の大寺、六宗の学匠、乃至初めて至極を悟る」等云云。又云はく「聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。彼此理を争って其の疑ひ未だ解けず。而るに此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云。又云はく「三論・法相、久年の諍ひ、渙焉として氷のごとく解け、昭然として既に明らかにして、猶雲霧を披いて三光を見るがごとし」云云。最澄和尚、十四人が義を判じて云はく「各一軸を講ずるに法鼓を深壑に振るひ、賓主三乗の路に徘徊し、義旗を高峰に飛ばす。長幼三有の結を摧破して、猶未だ歴劫の轍を改めず、白牛を門外に混ず。豈善く初発の位に昇り、阿荼を宅内に悟らんや」等云云。弘世・真綱二人の臣下云はく「霊山の妙法を南岳に聞き、総持の妙悟を天台に闢く。一乗の権滞を慨き、三諦の未顕を悲しむ」等云云。又十四人の云はく「善議等牽かれて休運に逢ひ、乃ち奇詞を閲す。深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」等云云。此の十四人は華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑑真等の漢土日本の元祖等の法門、瓶はかはれども水は一つなり。而るに十四人、彼の邪義をすてヽ伝教の法華経に帰伏しぬる上は、誰の末代の人か、華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申すべきや。小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。大乗の三宗破れぬる上は、沙汰のかぎりにあらず。而るを今に子細を知らざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。譬へば盲目が天の日月を見ず、聾人が雷の音をきかざるがゆへに、天には日月なし、空に声なしとをもうがごとし。 真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正天皇の御宇に、善無畏三蔵、大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる。又玄等、大日経の義釈十四巻をわたす。又東大寺の得清大徳わたす。此等を伝教大師御らんありてありしかども大日経・法華経の勝劣いかんがとをぼしけるほどに、かたがた不審ありし故に、去ぬる延暦二十三年七月御入唐、西明寺の道邃和尚、仏瀧寺の行満等に値ひ奉りて止観円頓の大戒を伝受し、霊感寺の順暁和尚に値ひ奉りて真言を相伝し、同じき延暦二十四年六月に帰朝し、桓武天王に御対面、宣旨を下して六宗の学匠に止観・真言を習はしめ、同七大寺にをかれぬ。真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多くの子細あれども、又大日経の義釈には理同事勝とかきたれども、伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知ろしめして、八宗とはせさせ給はず。真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍依経となして、華厳・大品般若・涅槃等の例とせり。而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を、我が国に立てう立てじの諍論がわづらはしきに依りてや、真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりけるか。但し依憑集と申す文に、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて、大日経に入れて理同とせり。されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり。いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、竜智菩薩に値ひ奉りし時、月氏には仏意をあきらめたる論釈なし。漢土に天台という人の釈こそ邪正をえらび、偏円をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこ、あなかしこ、月氏へ渡し給へとねんごろにあつらへし事を、不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然なり。されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には、法華経はすぐれたりという事は分明なり。又真言宗の元祖という竜樹菩薩の御心もかくのごとし。大智度論を能く能く尋ぬるならば、此の事分明なるべきを、不空があやまれる菩提心論に皆人ばかされて、此の事に迷惑せるか。 又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云ふ人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦廿三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子、恵果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天王は御ほうぎょ、平城天王に見参し御用ゐありて御帰依他にことなりしかども、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れて有りし程に、伝教大師は嵯峨の天王、弘仁十三年六月四日御入滅、同じき弘仁十四年より、弘法大師、王の御師となり、真言宗を立てヽ東寺を給ひ、真言和尚とがうし、此より八宗始まる。一代の勝劣を判じて云はく、第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり。教主釈尊は仏なれども、大日如来に向かふれば無明の辺域と申して、皇帝と俘囚とのごとし。天台大師は盜人なり、真言の醍醐を盜んで、法華経を醍醐というなんどかヽれしかば、法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が、法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ、華厳宗が、法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり。例へば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆藪天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて、其の上にのぼって邪法を弘めしがごとし。伝教大師御存生ならば、一言は出だされべかりける事なり。又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん。天下第一の大凶なり。  慈覚大師は去ぬる承和五年に御入唐、漢土にして十年が間、天台・真言の二宗をならう。法華・大日経の勝劣を習ひしに、法全・元政等の八人の真言師には、法華経と大日経は理同事勝等云云。天台宗の志遠・広修・維等に習ひしには、大日経は方等部の摂等云云。同じき承和十三年九月十日に御帰朝、嘉祥元年六月十四日に宣旨下る。法華・大日経等の勝劣は、漢土にしてしりがたかりけるかのゆへに、金剛頂経の疏七巻、蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻。此の疏の心は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の義と、法華経の義は、其の所詮の理は一同なれども、事相の印と真言とは、真言の三部経すぐれたりと云云。此は偏に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし。然れども、我が心に猶不審やのこりけん。又心にはとけてんけれども、 人の不審をはらさんとやをぼしけん。此の十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて、御祈請ありき。かくは造りて候へども仏意計りがたし。大日の三部やすぐれたる、法華経の三部やまされると御祈念有りしかば、五日と申す五更に忽ちに夢想あり。青天に大日輪かヽり給へり。矢をもてこれを射ければ、矢飛んで天にのぼり、日輪の中に立ちぬ。日輪動転してすでに地に落ちんとすとをもひて、うちさめぬ。悦んで云はく、「我に吉夢あり。法華経に真言勝れたりと造りつるふみは仏意に叶ひけり」と悦ばせ給ひて、宣旨を申し下して日本国に弘通あり。而も宣旨の心に云はく「遂に知んぬ、天台の止観と真言の法義とは理冥に符へり」等云云。祈請のごときんば、大日経に法華経は劣なるやうなり。宣旨を申し下すには法華経と大日経とは同じ等云云。  智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は、大体此の国にして学し給ひけり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審に、漢土へは渡り給ひけるか。去ぬる仁寿二年に御入唐、漢土にしては、真言宗は法全・元政等にならはせ給ひ、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。天台宗は良和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華には及ばず等云云。七年が間漢土に経て、去ぬる貞観元年五月十七日御帰朝。大日経の旨帰に云はく「法華尚及ばず、況んや自余の教をや」等云云。此の釈は法華経は大日経には劣る等云云。又授決集に云はく「真言禅門乃至若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是摂引門なり」等云云。普賢経の記・論の記に云はく「同じ」等云云。貞観八年丙戌四月廿九日壬申、勅宣を申し下して云はく「如聞、真言・止観両教の宗、同じく醍醐と号し、倶に深祕と称す」等云云。又六月三日の勅宣に云はく「先師既に両業を開いて以て我が道と為す。代々の座主相承して兼ね伝へざること莫し。在後の輩、豈旧迹に乖かんや。如聞、山上の僧等、専ら先師の義に違いて偏執の心を成す。殆ど余風を扇揚し、旧業を興隆するを顧みざるに似たり。凡そ厥師資の道、一を欠くも不可なり。伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや。今より以後、宣しく両教に通達するの人を以て延暦寺の座主と為し、立てヽ恒例と為すべし」云云。  されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値ひて有りしかども、二宗の勝劣は思ひ定めざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等云云。宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は、違勅の者といましめられたり。此等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用ゐじと見へて候。但し二宗の斉等とは、先師伝教大師の御義と、宣旨に引き載せられたり。抑伝教大師何れの書にかヽれて候ぞや、此の事よくよく尋ぬべし。  慈覚・智証と日蓮とが、伝教大師の御事を不審申すは、親に値ふての年あらそひ、日天に値ひ奉りての目くらべにては候へども、慈覚・智証の御かたふどをせさせ給はん人々は、分明なる証文をかまへさせ給ふべし。詮ずるところは信をとらんがためなり。玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし。天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき。法護三蔵は印度の法華経をば見たれども、嘱累の先後をば漢土の人みねども、誤りといゐしぞかし。設ひ慈覚の伝教大師に値ひ奉りて習ひ伝へたりとも、智証大師は義真和尚に口決せりといふとも、伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加へざらん。伝教大師の依憑集と申す文は大師第一の祕書なり。彼の書の序に云はく「新来の真言家は則ち筆授の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠し、沈空の三論宗は弾呵の屈恥を忘れて称心の酔ひを覆ふ。著有の法相は濮陽の帰依を非し、青竜の判経を払ふ等。乃至、謹んで依憑集一巻を著はして同我の後哲に贈る。某時興ること、日本第五十二葉弘仁の七丙申の歳なり」云云。次下の正宗に云はく「天竺の名僧、大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪へたりと聞いて、渇仰して訪問す」云云。次下に云はく「豈中国に法を失って之を四維に求むるに非ずや。而も此の方に識ること有る者少なし。魯人の如きのみ」等云云。此の書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文なり。天台・真言の二宗同一味ならば、いかでかせめ候べき。而も不空三蔵等をば、魯人のごとしなんどかヽれて候。善無畏・金剛智・不空の真言宗いみじくば、いかでか魯人と悪口あるべき。又天竺の真言が天台宗に同じきも、又勝れたるならば、天竺の名僧いかでか不空にあつらへ、中国に正法なしとはいうべき。それはいかにもあれ、慈覚・智証の二人は、言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、心は御弟子にあらず。其の故は此の書に云はく「謹んで依憑集一巻を著はして、同我の後哲に贈る」等云云。同我の二字は、真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ同我にてはあるべけれ。我と申し下さるヽ宣旨に云はく「専ら先師の義に違ひ偏執の心を成す」等云云。又云はく「凡そ厥師資の道、一を欠けても不可なり」等云云。此の宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ。かうせめ候もをそれにては候へども、此をせめずば大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じて、いのちをまとにかけてせめ候なり。此の二人の人々の、弘法大師の邪義をせめ候わざりけるは最も道理にて候ひけるなり。されば粮米をつくし、人をわづらはかして、漢土へわたらせ給はんよりは、本師伝教大師の御義をよくよくつくさせ給ふべかりけるにや。されば叡山の仏法は、但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其の主は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給へば、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事なり。其の故は、水火天地なる事は僻事なれども人用ふる事なければ、其の僻事成ずる事なし。弘法大師の御義はあまり僻事なれば、弟子等も用ふる事なし。事相計りは其の門家なれども、其の教相の法門は、弘法の義いゐにくきゆへに、善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり。慈覚・智証の義こそ、真言と天台とは理同なりなんど申せば、皆人さもやとをもう。かうをもうゆへに事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像木像の開眼の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にをちて、天台宗は一人もなきなり。例せば法師と尼と、黒きと青きとはまがひぬべければ、眼くらき人はあやまつぞかし。僧と男と、白と赤とは目くらき人も迷はず、いわうや眼あきらかなる者をや。慈覚・智証の義は、法師と尼と、黒きと青きとがごとくなるゆへに、智人も迷ひ、愚人もあやまり候ひて、此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州、皆謗法の者となりぬ。  抑法華経の第五に「文殊師利、此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り」云云。此の経文のごとくならば、法華経は大日経等の一切経の頂上に住し給ふ正法なり。さるにては善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は此の経文をばいかんが会通せさせ給ふべき。法華経の第七に云はく「能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経文のごとくならば、法華経の行者は川流 江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。伝教大師の秀句と申す書に云はく「此の経も亦復是くの如し。乃至、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も、亦復是くの如し。一切衆生の中に於て、亦為れ第一なり」已上経文なりと引き入れさせ給ひて、次下に云はく「天台法華玄に云はく」等云云已上玄文と、かヽせ給ひて、上の心を釈して云はく「当に知るべし、他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず。其の能く経を持つ者も、亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に、能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり。已に仏説に拠る、豈自歎ならんや」等云云。次下に譲る釈に云はく「委曲の依憑、具に別巻に有るなり」等云云。依憑集に云はく「今吾が天台大師、法華経を説き法華経を釈すること群に特秀し唐に独歩す。明らかに知んぬ、如来の使ひなりと。讃めん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開かん」等云云。法華経・天台・妙楽・伝教の経釈の心のごとくならば、今日本国には法華経の行者は一人もなきぞかし。月氏には教主釈尊、宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給ひて大地の上に居せしめ、大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給ふ。此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。此即ち法華経の行者なり。天竺かくのごとし。漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて、現身に大師となる。「群に特秀し唐に独歩す」というこれなり。日本国には伝教大師六宗にせめかちて、日本の始め第一の根本大師となり給ふ。月氏・漢土・日本に但三人計りこそ「一切衆生の中に於て亦為れ第一」にては候へ。されば秀句に云はく「浅きは易く深きは難しとは、釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは、丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順して、法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して、法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人、釈尊を加へ奉りて已上三人なり。外典に云はく「聖人は一千年に一たび出で、賢人は五百年に一たび出づ。黄河は・渭ながれをわけて、五百年には半河すみ、千年には共に清む」と申すは一定にて候ひけり。  然るに日本国は叡山計りに、伝教大師の御時法華経の行者ましましけり。義真・円澄は第一第二の座主なり。第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円澄は半ばは伝教の御弟子、半ばは弘法の弟子なり。第三の慈覚大師は、始めは伝教大師の御弟子ににたり。御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其の跡をばつがせ給へども、法門は全く御弟子にはあらず。而れども円頓の戒計りは、又御弟子ににたり。蝙蝠鳥のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず、梟鳥禽・破鏡獣のごとし。法華経の父を食らひ、持者の母をかめるなり。日をいるとゆめにみしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ。智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄をかんぜり。但中堂計りのこれり。弘法大師も又跡なし。弘法大師の云はく「東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず」等、御いましめの状あり。しかれども寛平の法王は仁和寺を建立して東寺の法師をうつして、我が寺には叡山の円頓戒を持たざらん者をば住せしむべからずと、宣旨分明なり。されば今の東寺の法師は、鑑真が弟子にもあらず、弘法の弟子にもあらず、戒は伝教の御弟子なり。又伝教の御弟子にもあらず、伝教の法華経を破失す。去ぬる承和二年三月廿一日に死去ありしかば、公家より遺体をばほらせ給ひ、其の後誑惑の弟子等集りて御入定と云云。或はかみをそりてまいらするぞといゐ、或は三鈷をかんどよりなげたりといゐ、或は日輪夜中に出でたりといゐ、或は現身に大日如来となり給ふといゐ、或は伝教大師に十八道ををしえまいらせたりといゐて師の徳をあげて智慧にかへ、我が師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり。又高野山に本寺・伝法院といヽし二つの寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔大日如来なり。伝法院と申すは正覚房が立てし金剛界の大日なり。此の本末の二寺昼夜に合戦あり。例せば叡山・園城のごとし。誑惑のつもりて日本に二つの禍の出現せるか。糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞のかなり。大妄語を集めて仏とがうすれども、但無間大城なり。尼・が塔は、数年が間利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽ちにくづれぬ。鬼弁婆羅門がとばりは、多年人をたぼらかせしかども、阿湿縛窶沙菩薩にせめられてやぶれぬ。留外道は石となって八百年、陳那菩薩にせめられて水となりぬ。道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。趙高が国をとりし、王莽が位をうばいしがごとく、法華経の位をとて大日経の所領とせり。法王すでに国に失せぬ、人王あに安穏ならんや。日本国は慈覚・智証・弘法の流れなり、一人として謗法ならざる人はなし。  但し事の心を案ずるに、大荘厳仏の末、一切明王仏の末法のごとし。威音王仏の末法には改悔ありしすら猶千劫阿鼻地獄に堕つ。いかにいわうや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。「如是展転、至無数劫」疑ひなきものか。かヽる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつればふるき守護の善神もほこらをやひて寂光の都へかへり給ひぬ。但日蓮計り留まり居て告げ示せば、国主これをあだみ数百人の民に或は罵詈、或は悪口、或は杖木、或は刀剣、或は宅々ごとにせき、或は家々ごとにをう。それにかなはねば我と手をくだして二度まで流罪あり。去ぬる文永八年九月の十二日には頚を切らんとす。最勝王経に云はく「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、他方の怨賊来たって国人喪乱に遭ふ」等云云。大集経に云はく「若しは復諸の刹利国王諸の非法を作し、世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し、刀杖もって打斫し、及び衣鉢種々の資具を奪ひ、若しは他の給施に留難を作す者有らば、我等彼をして自然に卒かに他方の怨敵を起こさしめん。及び自界の国土にも亦兵起こり、病疫飢饉し、非時に風雨し闘諍言訟せしめん。又其の王をして久しからずして復当に已が国を亡失せしむべし」等云云。此等の文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人、阿鼻地獄はいかで脱れ給ふべき。去ぬる文永八年九月十二日に、平左衛門並びに数百人に向かって云はく、日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ等云云。此の経文に智人を国主等、若しは悪僧等がざんげんにより、若しは諸人の悪口によて失にあつるならば、にはかにいくさをこり、又大風ふかせ、他国よりせむべし等云云。去ぬる文永九年二月のどしいくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来たりしは、偏に日蓮がゆへにあらずや。いわうや前よりこれをかんがへたり。誰の人か疑ふべき。  弘法・慈覚・智証の誤り、並びに禅宗と念仏宗とのわざわいあいをこりて、逆風に大波をこり、大地震のかさなれるがごとし。さればやうやく国をとろう。太政入道が国ををさへ、承久に王位つきはてヽ世東にうつりしかども、但国中のみだれにて他国のせめはなかりき。彼は謗法の者は国に充満せりといへども、さヽへ顕はす智人なし。かるがゆへになのめなりき。譬へば師子のねぶれるは手をつけざればほへず。迅き流れは櫓をさヽへざれば波たかヽらず。盗人はとめざればいからず。火は薪を加へざればさかんならず。謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。例せば日本国に仏法わたりはじめて候ひしに、始めはなに事もなかりしかども、守屋仏をやき、僧をいましめ、堂塔をやきしかば、天より火の雨ふり、国にはうさうをこり、兵乱つヾきしがごとし。此はそれにはにるべくもなし。謗法の人々も国に充満せり。日蓮が大義も強くせめかヽる。修羅と帝釈と、仏と魔王との合戦にもをとるべからず。金光明経に云はく「時に隣国の怨敵是くの如き念を興さん。当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云。又云はく「時に王見已はって、即ち四兵を厳ひて彼の国に発向し、討罰を為さんと欲す。我等爾の時に、当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し、彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云。最勝王経の文、又かくのごとし。大集経云云。仁王経云云。此等の経文のごときんば、正法を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ。例せば訖利多王を雪山下王のせめ、大族王を幻日王の失ひしがごとし。訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失ひし王ぞかし。漢土にも仏法をほろぼしヽ王、みな賢王にせめられぬ。これは彼にはにるべくもなし。仏法のかたうどなるやうにて、仏法を失ふ法師のかたうどをするゆへに、愚者はすべてしらず。智者なんども常の智人はしりがたし。天も下劣の天人は知らずもやあるらん。されば漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし。  法滅尽経に云はく「吾般泥・の後、五逆濁世に、魔道興盛し、魔沙門と作って吾が道を壊乱せん。乃至悪人転多く海中の沙の如く、善者は甚だ少なくして、若しは一、若しは二」云云。涅槃経に云はく「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは、爪上の土の如し。乃至是の経を信ぜざるものは、十方界の所有の地土の如し」等云云。此の経文は予が肝に染みぬ。当世日本国には、我も法華経を信じたり信じたり、諸人の語のごときんば、一人も謗法の者なし。此の経文には、末法に謗法の者十方の地土、正法の者爪上の土等云云。経文と世間とは水火なり。世間の人の云はく、日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云。又経文には天地せり。法滅尽経には善者は一・二人。涅槃経には信ずる者は爪上の土等云云。経文のごとくならば、日本国は但日蓮一人こそ爪上の土、一・二人にては候へ。経文をや用ふべき、世間をや用ふべき。  問うて云はく、涅槃経の文には、涅槃経の行者は爪上の土等云云。汝が義には法華経等云云、如何。答へて云はく、涅槃経に云はく「法華の中の如し」等云云。妙楽大師云はく「大経自ら法華を指して極と為す」等云云。大経と申すは涅槃経なり。涅槃経には法華経を極と指して候なり。而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは、主を所従といゐ下郎を上郎といゐし人なり。涅槃経をよむと申すは、法華経をよむを申すなり。譬へば賢人は国主を重んずる者をば、我をさぐれども悦ぶなり。涅槃経は法華経を下げて我をほむる人をば、あながちに敵とにくませ給ふ。  此の例をもって知るべし。華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣るとよむは、彼々の経々の心にはそむくべし。此をもって知るべし、法華経をよむ人の此の経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なるとをもうは、此の経をよまぬ人なり。例せば、嘉祥大師は、法華玄と申す文十巻を造りて法華経をほめしかども、妙楽かれをせめて云はく「毀其の中に在り、何んぞ弘讃と成さん」等云云。法華経をやぶる人なり。されば嘉祥は落ちて、天台につかひて法華経をよまず、我経をよむならば悪道まぬがれがたしとて、七年まで身を橋とし給ひき。慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文十巻あ華の心を死す」等云云。此等をもってをもうに、法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなり。嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし。弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや。嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも、猶や已前の法華経誹謗の罪やきへざるらん。不軽軽毀の者は不軽菩薩に信伏随従せしかども、重罪いまだのこりて、千劫阿鼻に堕ちぬ。されば弘法・慈覚・智証等は設ひひるがへす心ありとも、尚法華経をよむならば重罪きへがたし。いわうやひるがへる心なし。又法華経を失ひ、真言教を昼夜に行ひ、朝暮に伝法せしをや。世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもて大を破せる罪をば、舌を切らんとこそせしか。世親菩薩は仏説なれども、阿含経をばたわぶれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて、小乗をやぶり給ひき。嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて百余人の智者の前にして、五体を地になげ、遍身にあせをながし、紅のなんだをながして、今よりは弟子を見じ、法華経をかうぜじ、弟子の面をまぼり法華経をよみたてまつれば、我が力の此の経を知るににたりとて、天台よりも高僧老僧にてをはせしが、わざと人のみるとき、をひまいらせて河をこへ、かうざにちかづきてせなかにのせまいらせ給ひて高座にのぼせたてまつり、結句御臨終の後には、隋の皇帝にまいらせ給ひて、小児が母にをくれたるがごとくに、足をすりてなき給ひしなり。嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは、門は浅深あれども心は一つとかきてこそ候へ。此が謗法の根本にて候か。華厳の澄観も、真言の善無畏も、大日経と法華経とは理は一つとこそかヽれて候へ。嘉祥とがあらば、善無畏三蔵も脱れがたし。  されば善無畏三蔵は中天の国主なり。位をすてヽ他国にいたり、殊勝・招提の二人にあひて法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば、法華経の行者とこそみへしか。しかれども大日経を習ひしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやをもひけん。始めはいたう其の義もなかりけるが、漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ。天台宗をそねみ思ふ心つき給ひけるかのゆへに、忽ちに頓死して、二人の獄卒に鉄の縄七つつけられて閻魔王宮にいたりぬ。 命いまだつきずといゐてかへされしに、法華経謗法とやをもひけん、真言の観念・印・真言等をばなげすてヽ、法華経の今此三界の文を唱へて、縄も切れかへされ給ひぬ。又雨のいのりををほせつけられたりしに、忽ちに雨は下りたりしかども、大風吹きて国をやぶる。結句死し給ひてありしには、弟子等集まりて臨終いみじきやうをほめしかども、無間大城に堕ちにき。問うて云はく、何をもってかこれをしる。答へて云はく、彼の伝を見るに云はく「今畏の遺形を観るに、漸く加縮小し、黒皮隠々として、骨其れ露なり」等云云。彼の弟子等は死後に地獄の相の顕はれたるをしらずして、徳をあぐなどをもへども、かきあらわせる筆は畏が失をかけり。死してありければ身やうやくつヾまりちひさく、皮はくろし、骨あらわなり等云云。人死して後、色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし。善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ。幼少にして位をすてぬ。第一の道心なり。月氏五十余箇国を修行せり。慈悲の余りに漢土にわたれり。天竺・震旦・日本・一閻浮提の内に真言を伝へ鈴をふる、この人の功徳にあらずや。いかにとして地獄には堕ちけると後生ををもはん人々は御尋ねあるべし。  又金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり。金剛頂経を漢土にわたす。其の徳善無畏のごとし。又互ひに師となれり。而るに金剛智三蔵勅宣によて雨の祈りありしかば七日が中に雨下る。天子大いに悦ばせ給ふほどに、忽ちに大風吹き来たる。王臣等けうさめ給ひて、使ひをつけて追はせ給ひしかども、とかうのべて留まりしなり。結句は姫宮の御死去ありしに、いのりをなすべしとて、身の代に殿上の二の女子七歳になりしを薪につみこめて、焼き殺せし事こそ無慚にはをぼゆれ。而れども姫宮もいきかへり給はず。不空三蔵は金剛智と月氏より御ともせり。此等の事を不審とやをもひけん。畏と智と入滅の後、月氏に還りて竜智に値ひ奉り、真言を習ひなをし、天台宗に帰伏してありしが、心計りは帰れども、身はかへる事なし。雨の御いのりうけ給はりたりしが、三日と申すに雨下る。天子悦ばせ給ひて我と御布施ひかせ給ふ。須臾ありしかば、大風落ち下りて内裏をも吹きやぶり、雲閣月卿の宿所所もあるべしともみへざりしかば、天子大いに驚きて宣旨なりて風をとヾめよ。且くありては又吹き又吹きせしほどに、数日が間やむことなし。結句は使ひをつけて追ふてこそ、風もやみてありしか。此の三人の悪風は、漢土日本の一切の真言師の大風なり。さにてあるやらん。去ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法を、すこしもたがへず伝へたりけるか。心にくし、心にくし。  弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに、先には守敏祈雨して七日が内に雨を下らす。但し京中にふりて田舎にそヽがず。次に弘法承け取りて一七日に雨気なし、二七日に雲なし。三七日と申せしに、天子より和気真綱を使者として、御幣を神泉苑にまいらせたりしかば、雨下る事三日。此をば弘法大師並びに弟子等、此の雨をうばひとり、我が雨として、今に四百余年、弘法の雨という。慈覚大師の夢に日輪をいしと、弘法大師の大妄語に云へる、弘仁九年の春大疫をいのりしかば、夜中に大日輪出現せりと云云。成劫より已来住劫の第九の減、已上二十九劫が間に、日輪夜中に出でしという事なし。慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に日輪をいるとゆめにみるは、吉夢という事有りやいなや。修羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。其の矢かへりて我が眼にたつ。殷の紂王は日天を的にいて身を亡ぼす。日本の神武天皇の御時、度美長と五瀬命と合戦ありしに、命の手に矢たつ。命の云はく、我はこれ日天の子孫なり。日に向かひ奉りて弓をひくゆへに、日天のせめをかをほれりと云云。阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返りてぎょしんなりしが、をどろいて諸臣に向かって云はく、日輪天より地に落つとゆめにみる。諸臣の云はく、仏の御入滅か云云。須跋陀羅がゆめ又かくのごとし。我が国は殊にいむべきゆめなり。神をば天照という、国をば日本という、又教主釈尊をば日種と申す。摩耶夫人日をはらむとゆめにみてまうけ給へる太子なり。慈覚大師は大日如来を叡山に立てヽ釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となりしゆへに、此の夢出現せり。例せば漢土の善導が、始めは密州の明勝といゐし者に値ひて法華経をよみたりしが、後には道綽に値ひて法華経をすて観経に依りて疏をつくり、法華経をば千中無一、念仏をば十即十生・百即百生と定めて、此の義を成ぜんがために、阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす。仏意に叶ふやいなや、毎夜夢の中に常に一の僧有り、来たって指受すと云云。乃至一経法の如くせよ。乃至観念法門経等云云。法華経には「若し法を聞く者有れば一として成仏せざるなし」と。善導は「千の中に一も無し」等云云。法華経と善導とは水火なり。善導は観経をば十即十生・百即百生と。無量義経に云はく観経は「未だ真実を顕はさず」等云云。無量義経と楊柳房とは天地なり。此を阿弥陀仏の僧と成りて、来たって真なりと証せば、あに真事ならんや。抑阿弥陀は法華経の座に来たりて、舌をば出だし給はざりけるか。観音・勢至は法華経の座にはなかりけるか。此をもてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり。 問うて云はく、弘法大師の心経の秘鍵に云はく「時に弘仁九年の春天下大疫す。爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙を爪掌に握って般若心経一巻を書写し奉りたまふ。予購読の撰に範りて経旨の宗を綴り未だ結願の詞を吐かざるに、蘇生の族途に彳ずむ。夜変じて日光赫々たり。是愚身の戒徳に非ず、金輪の御信力の所為なり。但神舎に詣でん輩は此の秘鍵を誦し奉れ。昔、予、鷲峰説法の筵に陪して、親しく其の深文を聞きたてまつる。豈其の義に達せざらんや」等云云。又孔雀経の音義に云はく「弘法大師帰朝の後、真言宗を立てんと欲し、諸宗を朝廷に群集す。即身成仏の義を疑ふ。大師智拳の印を結びて南方に向かふに、面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成り、即便本体に還帰す。入我我入の事、即身頓証の疑ひ、此の日釈然たり。然るに真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道、彼の時より建立しぬ」と。又云はく「この時に諸宗の学徒大師に帰して、始めて真言を得て、請益し習学す。三論の道昌、法相の源仁、華厳の道雄、天台の円澄等、皆其の類なり」と。弘法大師の伝に云はく「帰朝泛舟の日発願して云はく、我が所学の教法若し感応の地有らば、此の三鈷其の処に到るべしと。仍って日本の方に向かって三鈷を抛げ上ぐるに遥かに飛んで雲に入る。十月に帰朝す」云云。又云はく「高野山の下に入定の所を占む。乃至彼の海上の三鈷今新たに此に在り」等云云。此の大師の徳無量なり。其の両三を示す。かくのごとくの大徳あり。いかんが此の人を信ぜずして、かへて阿鼻地獄に堕つるといはんや。答へて云はく、予も仰いで信じ奉る事かくのごとし。但し古の人々も不可思議の徳ありしかども、仏法の邪正は其れにはよらず。外道が或は恒河を耳に十二年留め、或は大海をすひほし、或は日月を手ににぎり、或は釈子を牛羊となしなんどせしかども、いよいよ大慢ををこして生死の業とこそなりしか。此をば天台云はく「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ。光宅が忽ちに雨を下らし須臾に花を感ぜしをも、妙楽は「感応此くの若くなれども猶理に称はず」とこそかヽれて候へ。されば天台大師の法華経をよみて須臾に甘雨を下らせ、伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしてをはせしも、其れをもって仏意に叶ふとはをほせられず。弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域とかヽせ給へる御ふでは、智慧かしこからん人は用ふべからず。いかにいわうや上にあげられて候徳どもは不審ある事なり。「弘仁九年の春天下大疫」等云云。春は九十日、何れの月何れの日ぞ、是一。又弘仁九年には大疫ありけるか、是二。又「夜変じて日光赫々たり」云云。此の事第一の大事なり。弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり。左史右史の記に載せたりや、是三。設ひ載せたりとも信じがたき事なり。成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間にいまだ無き天変なり。夜中に日輪の出現せる事如何。又如来一代の聖教にもみへず。未来に夜中に日輪出づべしとは三皇五帝の三墳五典にも載せず。仏経のごときんば減劫にこそ二つの日三つの日乃至七つの日は出づべしとは見ゆれども、かれは昼のことぞかし。夜日出現せば東西北の三方は如何。設ひ内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に日出づるという。公家・諸家・叡山等の日記あるならばすこし信ずるへんもや。次下に「昔、予、鷲峰説法の筵に陪して、親しく其の深文を聞く」等云云。此の筆を人に信ぜさせしめんがためにかまへ出だす大妄語か。されば霊山にして法華は戯論、大日経は真実と仏の説き給ひけるを、阿難・文殊が誤りて妙法華経をば真実とかけるか、いかん。いうにかいなき婬女・破戒の法師等が歌をよみて雨らす雨を、三七日まで下らさヾりし人は、かヽる徳あるべしや、是四。孔雀経の音義に云はく「大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。此又何れの王、何れの年時ぞ。漢土には建元を初めとし、日本には大宝を初めとして緇素の日記、大事には必ず年号のあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。又次に云はく「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」等云云。抑円澄は寂光大師、天台第二の座主なり。其の時何ぞ第一の座主義真、根本の伝教大師をば召さヾりけるや。円澄は天台第二の座主、伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり。弟子を召さんよりは、三論・法相・華厳よりは、天台の伝教・義真の二人を召すべかりけるか。而も此の日記に云はく「真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅道彼の時より建立しぬ」等云云。此の筆は伝教・義真の御存生かとみゆ。弘法は平城天皇大同二年より弘仁十三年までは盛んに真言をひろめし人なり。其の時は此の二人現にをはします。又義真は天長十年までおはせしかば、其の時まで弘法の真言はひろまらざりけるか。かたがた不審あり。孔雀経の疏は弘法の弟子真済が自記なり、信じがたし。又邪見の者が公家・諸家・円澄の記をひかるべきか。又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし。「面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。面門とは口なり、口の開けたりけるか。眉間開くとかヽんとしけるが誤りて面門とかけるか。ぼう書をつくるゆへにかヽるあやまりあるか。「大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄かに開いて金色の毘盧遮那と成る」等云云。涅槃経の五に云はく「迦葉、仏に白して言さく、世尊我今是の四種の人に依らず。何を以ての故に、瞿師羅経の中の如き、仏瞿師羅が為に説きたまはく、若し天・魔・梵・破壊せんと欲するが為に変じて仏の像となり、三十二相八十種好を具足し荘厳し、円光一尋面部円満なること猶月の盛明なるがごとく、眉間の毫相白きこと珂雪に踰え、乃至左の脇より水を出だし右の脇より火を出だす」等云云。又六の巻に云はく「仏迦葉に告げたまはく、我般涅槃して乃至後是の魔波旬漸く当に我が之の正法を沮壊すべし。乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作り、魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作り我が正法を壊らん」等云云。弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云。而も仏身を現ず。此涅槃経には魔、有漏の形をもって仏となって、我が正法をやぶらんと記し給ふ。涅槃経の正法は法華経なり。故に経の次下の文に云はく「久しく已に成仏す」と。又云はく「法華の中の如し」等云云。釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して法華経は真実、大日経等の一切経は不真実等云云。弘法大師は仏身を現じて、華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。又三鈷の事殊に不審なり。漢土の人の日本に来たりてほりいだすとも信じがたし。已前に人をやつかわしてうづみけん。いわうや弘法は日本の人、かヽる誑乱其の数多し。此等をもって仏意に叶ふ人の証拠とはしりがたし。 されば此の真言・禅宗・念仏等やうやくかうなり来たる程に、人王第八十二代尊成隠岐の法王、権大夫殿を失はんと年ごろはげませ給ひけるゆへに、国主なればなにとなくとも師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそあるべかりし上、叡山・東寺・園城・奈良・七大寺・天照大神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間、或は調伏、或は神に申させ給ひしに、二日三日だにもさヽへかねて、佐渡国・阿波国・隱岐国等にながし失せて終にかくれさせ給ひぬ。調伏の上首御室は、但東寺をかへらるヽのみならず、眼のごとくあひせさせ給ひし第一の天童勢多伽が頚切られたりしかば、調伏のしるし還着於本人のゆへとこそ見へて候へ。これはわづかの事なり。此の後定んで日本の国臣万民一人もなく、乾草を積みて火を放つがごとく、大山のくずれて谷をうむるがごとく、我が国他国にせめらるヽ事出来すべし。 此の事日本国の中に但日蓮一人計りしれり。いゐいだすならば殷の紂王の比干が胸をさきしがごとく、夏の桀王の竜蓬が頚を切りしがごとく、檀弥羅王の師子尊者が頚を刎ねしがごとく、竺の道生が流されしがごとく、法道三蔵のかなやきをやかれしがごとくならんずらんとは、かねて知りしかども、法華経には「我身命を愛せず、但無上道を惜しむ」ととかれ、涅槃経には「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さヾれ」といさめ給えり。今度命ををしむならばいつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切りて申し始めしかば、案にたがはず或は所をおひ、或はのり、或はうたれ、或は疵をかうふるほどに、去ぬる弘長元年辛酉五月十二日に御勘気をかうふりて、伊豆国伊東にながされぬ。又同じき弘長三年癸亥二月二十二日にゆりぬ。 其の後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起こるがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我が身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も此には及ばじとをぼゆ。日本六十六箇国、島二つの中に、一日片時も何れの所にすむべきやうもなし。古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事、羅云のごとくなる持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も、日蓮に値ひぬれば悪口をはく。正直にして魏微・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう。いわうや世間の常の人々は犬のさるをみたるがごとく、猟師が鹿をこめたるににたり。日本国の中に一人として故こそあるらめという人なし。道理なり。人ごとに念仏を申す、人に向かふごとに念仏は無間に堕つるというゆへに。人ごとに真言を尊む、真言は国をほろぼす悪法という。国主は禅宗を尊む、日蓮は天魔の所為というゆへに。我と招けるわざわひなれば人ののるをもとがめず。とがむとても一人ならず。打つをもいたまず、本より存ぜしがゆへに。かういよいよ身もをしまずせめしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、或は後家尼御前等えつひて無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事、日本国を失はんと呪そする法師なり。故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾に頚をめせ。弟子等をば又或は頚を切り、或は遠国につかはし、或は篭に入れよと尼ごぜんたちいからせ給ひしかば、そのまヽ行なはれけり。 去ぬる文永八年辛未九月十二日の夜は相模国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ。又十三日の夜はゆりたりとどヾめきしが、又いかにやありけん、さどの国までゆく。今日切る、あす切る、といゐしほどに四箇年というに、結句は去ぬる文永十一年太歳甲戌二月の十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉へ入り、同じき四月の八日、平左衛門尉に見参してやうやうの事申したりし中に、今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ。同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり。これはひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざればさてこそ候へ。又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり。此の功徳は定んで上は三宝より下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故導善房の聖霊も扶かり給ふらん。但し疑ひ念ふことあり。目連尊者は扶けんとをもいしかども母の青提女は餓鬼道に堕ちぬ。大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちぬ。これは力のまヽすくはんとをぼせども自業自得果のへんはすくひがたし。故導善房はいたう弟子なれば日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといゐ、提婆・瞿伽利にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて、いとをしとをもうとしごろの弟子等をだにもすてられし人なれば、後生はいかんがと疑う。但一つの冥加には景信と円智・実城とがさきにゆきしこそ一つのたすかりとはをもへども、彼等は法華経の十羅刹のせめをかほりてはやく失せぬ。後にすこし信ぜられてありしは、いさかひの後のちぎりぎなり、ひるのともしびなにかせん。其の上いかなる事あれども子・弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし。力なき人にもあらざりしが、さどの国までゆきしに一度もとぶらはれざりし事は、信じたるにはあらぬぞかし。それにつけてもあさましければ、彼の人の御死去ときくには火にも入り、水にも沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたヽいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出づるならば末もとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。但し各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが、かへりて御弟子とならせ給ひしがごとし。日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、をひてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑ひおぼすべからず。 問うて云はく、法華経一部八巻二十八品の中に何物か肝心なる。答へて云はく、華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経。かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目、其の経の肝心なり。大は大につけ小は小につけて題目をもて肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等亦復かくのごとし。仏も又かくのごとし。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通仏・雲雷音王仏、是等も又名の内に其の仏の種々の徳をそなへたり。今の法華経も亦もってかくのごとし。如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復一切経の肝心、一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり。問うて云はく、南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱ふると南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱ふると斉等なりや、浅深の功徳差別せりや。答へて云はく、浅深等あり。疑って云はく、其の心如何。答へて云はく、小河は露と涓と井と渠と江とをば収むれども大河ををさめず。大河は露乃至小河を摂むれども大海ををさめず。阿含経は井江等露涓をおさめたる小河のごとし。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小河をおさむる大河なり。法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一ももらさぬ大海なり。譬へば身の熱き者の大寒水の辺にいねつればすヾしく、小水の辺に臥しぬれば苦しきがごとし。五逆謗法の大一闡提の人、阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さんじがたし。法華経の大雪山の上に臥しぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽ちに散ずべし。されば愚者は必ず法華経を信ずべし。各々経々の題目は易き事同じといへども、愚者と智者との唱ふる功徳は天地雲泥なり。譬へば大綱は大力も切りがたし。小力なれども小刀をもてばたやすくこれをきる。譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破りがたし。利剣をもてば小刀も破りぬべし。譬へば薬はしらねども服すれば病やみぬ。食は服せども病やまず。譬へば仙薬は命をのべ、凡薬は病をいやせども命をのべず。 疑って云はく、二十八品の中に何れか肝心なる。答へて云はく、或は云はく、品々皆事に随ひて肝心なり。或は云はく、方便品・寿量品肝心なり。或は云はく、方便品肝心なり。或は云はく、寿量品肝心なり。或は云はく、開・示・悟・入肝心なり。或は云はく、実相肝心なり。 問うて云はく、汝が心如何。答ふ、南無妙法蓮華経肝心なり。其の証如何。答へて云はく、阿難・文殊等、如是我聞等云云。問うて曰く、心如何。答へて云はく、阿難と文殊とは八年が間此の法華経の無量の義を一句一偈一字も残さず聴聞してありしが、仏の滅後に結集の時九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに、妙法蓮華経とかヽせて次に如是我聞と唱へさせ給ひしは、妙法蓮華経の五字は一部八巻二十八品の肝心にあらずや。されば過去の灯明仏の時より法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は「如是とは将に所聞を伝へんとして前題に一部を挙ぐるなり」等云云。霊山にまのあたりきこしめしてありし天台大師は「如是とは所聞の法体なり」等云云。章安大師の云はく、記者釈して曰く「蓋し序王とは経の玄意を叙し玄意は文の心を述す」等云云。此の釈に文心とは題目は法華経の心なり。妙楽大師云はく「一代の教法を収むること法華の文心より出づ」等云云。天竺は七十箇国なり、総名は月氏国。日本は六十箇国、総名は日本国。月氏の名の内に七十箇国乃至人畜珍宝みなあり。日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽も奥州の金も乃至国の珍宝人畜乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂まれり。天眼をもっては、日本と申す二字を見て六十六箇国乃至人畜等をみるべし。法眼をもっては、人畜等の此に死し彼に生ずるをもみるべし。譬へば人の声をきいて体をしり、跡をみて大小をしる。蓮をみて池の大小を計り、雨をみて竜の分斉をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏ありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし。例せば華さいて菓ならず、雷なって雨ふらず、鼓あて音なし、眼あて物をみず、女人あて子をうまず、人あて命なし又神なし。大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし。彼の経々にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども、法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各々当体の自用を失ふ。例せば衆星の光の一つの日輪にうばはれ、諸の鉄の一つの磁石に値ふて利精のつき、大剣の小火に値ひて用を失ひ、牛乳・驢乳等の師子王の乳に値ひて水となり、衆狐が術、一犬に値ひて失ひ、狗犬が小虎に値ひて色を変ずるがごとし。南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も、南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も、一切の諸仏諸経諸菩薩の用も、皆悉く妙法蓮華経の用に失はる。彼の経々は妙法蓮華経の用を借らずば、皆いたづらものなるべし。当時眼前のことはりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば、南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひるがごとく、秋冬の草のかるヽがごとく、氷の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。 問うて云はく、此の法実にいみじくば、など迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、善導が南無阿弥陀仏とすヽめて漢土に弘通せしがごとく、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとく、すヽめ給はざりけるやらん。答へて云はく、此の難は古の難なり、今はじめたるにはあらず。馬鳴・竜樹菩薩等は仏滅後六百年七百年等の大論師なり。此の人々世にいでヽ大乗経を弘通せしかば、諸々の小乗の者疑って云はく、迦葉・阿難等は仏の滅後二十年四十年住寿し給ひて正法をひろめ給ひしは、如来一代の肝心をこそ弘通し給ひしか。而るに此の人々は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給ひしに、今馬鳴・竜樹等はかしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず是一。迦葉は仏にあひまいらせて解りをえたる人なり。此の人々は仏にあひたてまつらず是二。外道は常・楽・我・浄と立てしを、仏世に出でさせ給ひて苦・空・無常・無我と説かせ給ひき。此のものどもは常・楽・我・浄といへり是三。されば仏も御入滅なりぬ。又迦葉等もかくれさせ給ひぬれば第六天の魔王が此のものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり外道の法となさんとするなり。されば仏法のあだをば頭をわれ、頚をきれ、命をたて、食を止めよ、国を追へと諸の小乗の人々申せしかども、馬鳴・竜樹等は但一・二人なり。昼夜に悪口の声をきヽ朝暮に杖木をかうぶりしなり。而れども此の二人は仏の御使ひぞかし。正しく摩耶経には六百年に馬鳴出で、七百年に竜樹出でんと説かれて候。其の上、楞伽経等にも記せられたり。又付法蔵経には申すにをよばず。されども諸の小乗のものどもは用ゐず但理不尽にせめしなり。「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の経文は此の時にあたりて少しつみしられけり。提婆菩薩の外道にころされ、師子尊者の頚をきられし此の事をもっておもひやらせ給へ。 又仏滅後一千五百余年にあたりて月氏よりは東に漢土といふ国あり。陳・隋の代に天台大師出世す。此の人の云はく、如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり。迦葉・阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば、或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹あって観心なしといゐしかば、南三北七の十流が末、数千万人時をつくりどっとわらふ。世の末になるまヽに不思議の法師も出現せり。時にあたりて我等を偏執する者はありとも、後漢の永平十年丁卯の歳より、今陳・隋にいたるまでの三蔵人師二百六十余人を、ものもしらずと申す上、謗法の者なり悪道に堕つという者出来せり。あまりのものぐるはしさに、法華経を持て来たり給へる羅什三蔵をも、ものしらぬ者と申すなり。漢土はさてもをけ、月氏の大論師竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給はずといふなり。此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり。鬼をころすにもすぐべしとのヽしりき。又妙楽大師の時、月氏より法相・真言わたり、漢土に華厳宗の始まりたりしを、とかくせめしかばこれも又さはぎしなり。 日本国には伝教大師が仏滅後一千八百年にあたりていでさせ給ひ、天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給ひしかば、在世の外道・漢土の道士、日本に出現せりと謗ぜし上、仏滅後一千八百年が間、月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は同じく小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其れを持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありしかば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。仏教の苗一時にうせなん。殷の紂・夏の桀、法師となりて日本に生まれたり。後周の宇文・唐の武宗、二たび世に出現せり。仏法も但今失せぬべし、国もほろびなんと。大乗小乗の二類の法師出現せば、修羅と帝釈と、項羽と高祖と一国に並べるなるべし。諸人手をたヽき舌をふるふ。在世には仏と提婆が二つの戒壇ありてそこばくの人々死にヽき。されば他宗にはそむくべし。我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ。あらをそろしをそろしとのヽしりあえりき。されども経文分明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ。されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病には仙薬、弱き人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。 問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云はく、何物ぞや。答へて云はく、三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云はく、其の形貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無知をきらはず一同に他事をすてヽ南無妙法蓮華経と唱ふべし。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり。例せば風に随って波の大小あり、薪によて火の高下あり、池に随って蓮の大小あり、雨の大小は竜による、根ふかければ枝しげし、源遠ければ流れながしというこれなり。周の代の七百年は文王の礼孝による。秦の世ほどもなし、始皇の左道なり。日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。春は花さき秋は菓なる、夏はあたヽかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。 「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提に於て断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等をして其の便りを得せしむること無けん」等云云。此の経文若しむなしくなるならば舎利弗は華光如来とならじ、迦葉尊者は光明如来とならじ、目・は多摩羅跋栴檀香仏とならじ、阿難は山海慧自在通王仏とならじ、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ、耶輸陀羅は具足千万光相仏とならじ。三千塵点も戯論、五百塵点も妄語となりて、恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十六の苦しみをうくべし。いかでかその義あるべき。其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり、真味は土にとヾまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。   建治二年太歳丙子七月二十一日          之を記す 甲州波木井の郷蓑歩の岳より安房国 東条郡清澄山浄顕房・義城房の本へ 奉送す。

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