其中衆生御書 建治元年 五四歳
「其の中の衆生は悉く是吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す」等云云。此の経文は釈尊は三義を備へ阿弥陀等の諸仏は三義欠けたり。此の義前々の如し。但し唯我一人の経文は小乗経の語にも非ず、諸大乗経の帯権赴機の説にも非ず、多宝十方の仏の証明を加へし金言なり。今の念仏者等の賢父の教言なり、明王の奉詔なり、聖師の教訓なり。三義に背き二十逆罪を犯し入阿鼻獄の人と成る事悲しむべし悲しむべし。是は法華経の初門の法門なり。次第に深く之を説かん云云。
迹門には三千塵点已来、娑婆世界の衆生は阿弥陀等の諸仏に棄てられ畢んぬ。化城喩品に云はく「爾の時に聞法の者、各の諸仏の所に在り乃至是の本因縁を以て今法華経を説く」云云。此くの如き経文は文に云はく「娑婆世界の衆生は過去三千塵点已来、一人として阿弥陀等の十方の十五仏の浄土へは生まるゝ者之無し」と。天台云はく「旧に西方を以て、以て長者を合す。今は之を用ひず。西方は仏別にして縁異なり、仏別なるが故に隠顕の義成ぜず。縁異なるが故に子父の義成ぜず。又此の経の首末に全く此の旨無し。眼を閉ぢて穿鑿す」と。妙楽云はく「西方等とは宿昔の縁別にして化道同じからず。結縁は生の如く成熟は養の如し。生養の縁異なれば子父成ぜず」等云云。此くの如きの文は十方の諸仏は養父、教主釈尊は親父なり。天台に多くの釈有りと雖も此の釈を以て本と為すべし。所々に弥陀を讃むる事は且く依経による。例せば世親等の阿含経を讃めたるが如し。本門を以て之を論ずれば五百塵点已来釈尊の実子なり。然りと雖も或は世間に著して法華を捨て、或は小乗権大乗経に著して法華経を捨て、或は迹門に著して本門を知らず、或は当説に著して法華を捨て、或は十方の浄土に心を懸け、或は弥陀の浄土に心を懸ける等。今七宗八宗等の悪師に遇ふて法華を捨てるの間今に五百塵点を歴たり。涅槃経の二十二に云はく、天台云はく「若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」と。疑って云はく、本迹二門の流通たる薬王品に弥陀の浄土を勧めたり如何。答へて云はく、薬王品の弥陀は爾前迹門の弥陀に非ず。名同体異是なり。無量義経に云はく「言辞是一にして而も義は別異なり」云云。妙楽云はく「須臾も観経等を指さざるなり」と。一切之を以て知るべし。所詮、発起影向等の深位の菩薩は十方の浄土より娑婆世界へ来たり、娑婆世界より十方浄土へ往く。