南条兵衛七郎殿御書 (慰労書)
文永元年 十二年 一三日 四三歳
御所労の由承り候はまことにてや候らん。世間の定なき事は病なき人も留まりがたき事に候へば、まして病あらん人は申すにおよばず。但心あらん人は後世をこそ思ひさだむべきにて候へ。又後世を思ひ定めん事は私にはかなひがたく候。一切衆生の本師にてまします釈尊の教こそ本にはなり候べけれ。
而るに仏の教へ又まちまちなり。人の心の不定なるゆへか。しかれども釈尊の説教五十年にはすぎず。さき四十余年の間の法門に、華厳経には「心仏及衆生、是三無差別」と。阿含経には「苦・空・無常・無我」と。大集経には「染浄融通」と。大品経には「混同無二」と。双観経・観経・阿弥陀経等には「往生極楽」と。此等の説教は皆正法・像法・末法の一切衆生をすくはんがためにこそとかれはんべり候ひけめ。
而れども仏いかんがをぼしけん、無量義経に「方便力を以て四十余年には未だ真実を顕はさず」ととかれて、先四十余年の往生極楽等の一切経は、親の先判のごとくくひかえされて「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず」といゐきらせ給ひて、法華経の方便品に重ねて「正直に方便を捨てゝ但無上道を説く」ととかせ給へり。方便をすてよととかれてはんべるは、四十余年の念仏等をすてよととかれて候。かうたしかにくいかえして、実義をさだむるには「世尊は法久しくして後要ず当に真実を説くべし」「久しく斯の要を黙して務ひで速やかに説かず」等と定められしかば、多宝仏は大地よりわきいでさせ給ひて、この事真実なりと証明をくわへ、十方の諸仏八方にあつまりて広長舌相を大梵天宮につけさせ給ひき。二処三会、二界八番の衆生一人もなくこれをみ候ひき。比等の文をみ候に仏教を信ぜぬ悪人外道はさておき候ひぬ。仏教の中に入り候ひても爾前・権教・念仏等を厚く信じて十遍・百遍・千遍・一万乃至六万等を一日にはげみて、十年二十年のあひだにも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人々は先判に付いて後判をもちゐぬ者にては候まじきか。此等は仏説を信じたりげには、我が身も人も思ひたりげに候へども仏説の如くならば不孝の者なり。故に法華経の第二に云はく「今此の三界は皆是我が有なり。其の中の衆生は悉く是吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す。復教詔すと雖も而も信受せず」等云云。此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり、師なり、主なり。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。この親と師と主との仰せをそむかんもの天神地祇にすてられたてまつらざらんや、不孝第一の者なり。故に「復教詔すと雖も而も信受せず」等と説かれたり。たとひ爾前の経につかせ給ひて百千万億劫行ぜさせ給ふとも、法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずば、不孝の人たる故に三世十方の聖衆にもすてられ天神地祇にもあだまれ給はんか是一。
たとい五逆十悪無量の悪をつくれる人も、根だにも利なれば得道なる事これあり、提婆達多・鴦崛摩羅等これなり。たとい根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり、須利槃特等是なり。我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもずぎ、物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし。貪瞋癡きわめてあつく、十悪は日々にをかし、五逆をばおかさゞれども五逆に似たる罪又日々におかす。又十悪五逆にずぎたる謗法は人ごとにこれあり。させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども、人ごとに法華経をばもちゐず。又もちゐたる様なれども念仏等の様には信心ふかからず。信心ふかき者も法華経のかたきをばせめず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還ってとがに行なはれんが如し、当世の人々は謗法の者としろしめすべし是二。
仏入滅の次の日より千年をば正法と申す、持戒の人多く又得道の人これあり。正法千年の後は像法千年なり、破戒者は多く得道すくなし。像法千年の後は末法万年、持戒もなし破戒もなし、無戒者のみ国に充満せん。而も濁世と申してみだれたる世なり。清世と申してすめる世には直縄のまがれる木をけづらするがやうに非をすて是を用ふるなり。正像より五濁やうやういできたりて末法になり候へば五濁さかりにすぎて、大風の大波ををこしてきしをうつのみならず又波と波とをうつなり。見濁と申すは正像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一つをつたへて無量の正法をやぶり、世間の罪にて悪道におつるものよりも仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへはんべり。しかるに当世は正像二千年すぎて末法に入りて二百余年なり。見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり。悪は愚癡の人も悪としればしたがはぬ辺もあり、火を水を以てけすが如し。善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起こる事をしらず、所以に伝教・慈覚等の聖跡あり。すたれあばるれども念仏堂にあらずといゐてすてをきて、そのかたわらにあたらしく念仏堂をつくり、彼の寄進の田畠をとりて念仏堂によす。此等は像法決疑経の文の如くならば功徳すくなしと見へはんべり。此等をもちてしるべし。善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし。今の世は末法のはじめなり、小乗経の機・権大乗経の機みなうせはてゝ実大乗経の機のみあり。小船には大石をのせず。悪人愚者は大石のごとし。小乗経並びに権大乗経念仏等は小船なり。大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず。末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬田を作れるが如し。時があはざるなり是三。
国をしるべし、国に随って人の心不定なり。たとへば江南の橘の淮北にうつされてからたちとなる。心なき草木すらところによる、まして心あらんもの何ぞ所によらざらん。されば玄奘三蔵の西域と申す文に天竺の国々を多く記したるに、国の習ひとして不孝なる国もあり、孝の心ある国もあり。瞋恚のさかんなる国もあり、愚癡の多き国もあり。一向に小乗を用ふべき国あり、二向大乗を用ふる国あり。大小兼学すべき国もあり等と見へ侍り。又一向に殺生の国、一向に偸盗の国、又穀の多き国、粟等の多き国不定なり。抑日本国はいかなる教を習ひて生死を離るべき国ぞと勘へたるに、法華経に云はく「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」等云云。此の文の心は法華経は南閻浮提の人のための有縁の経なり。弥勒菩薩の云はく「東方に小国有り唯大機のみ有り」等云云。此の論の文の如きは閻浮提の内にも東の国に大乗経の機あるか。肇公の記に云はく「茲の典は東北の諸国に有縁なり」等云云。法華経は東北の国に縁ありとかゝれたり。安然和尚云はく「我が日本国皆大乗を信ず」等云云。慧心の一乗要決に云はく「日本一州円機純一」等云云。釈迦如来・弥勤菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心の先徳等の心ならば日本国は純らに法華経の機なり。一句一偈なりとも行ぜば必ず得道なるべし。有縁の法なる故なり。たとへばくろがねを磁石のすうが如し。方諸の水をまねくににたり。念仏等の余善は無縁の国なり。磁石のかねをすわず方諸の水をまねかざるが如し。故に安然の釈に云はく「如し実乗に非ずんば恐らくは自他を欺かん」等云云。此の釈の心は日本国の人に法華経にてなき法をさづくるもの、我が身をもあざむき人をもあざむく者と見えたり。されば法は必ず国をかゞみて弘むべし。彼の国によかりし法なれば必ず此の国によかるべしとは思ふべからず是四。
又仏法流布の国においても前後を勘ふべし。仏法を弘むる習ひ、必ずさきに弘まりける法の様を知るべきなり。例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したりける薬を知るべし。薬と薬とがゆき合ひてあらそひをなし、人をそんずる事あり。仏法と仏法とがゆき合ひてあらそひをなして、人を損ずる事のあるなり。さきに外道の法弘まれる国ならば仏法をもちてこれをやぶるべし。仏の印度にいでて外道をやぶり、まとうか・ぢくほうらんの震旦に来て道士をせめ、上宮太子和国に生まれて守屋をきりしが如し。仏教においても、小乗の弘まれる国をば大乗経をもちてやぶるべし。無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し。権大乗の弘まれる国をば実大乗をもちてこれをやぶるべし。天台智者大師の南三・北七をやぶりしが如し。而るに日本国は天台・真言の二宗のひろまりて今に四百余歳、比丘・比丘尼・うばそく・うばひの四衆皆法華経の機と定りぬ。善人悪人・有智無智、皆五十展転の功徳をそなふ。たとへば崑崙山に石なく、蓬莱山に毒のなきが如し。而るを此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、珠に似たる石をのべて珠を投げさせ石をとらせたるなり。止観の五に云はく「瓦礫を貴んで明珠なりとす」と申すは是なり。一切衆生石をにぎりて珠とおもふ。念仏を申して法華経をすてたる是なり。此の事をば申せば還ってはらをたち、法華経の行者をのりて、ことに無間の業をますなり是五。
但とのは、このぎを聞こし食して、念仏をすて法華経にならせ給ひてはべりしが、定めてかへりて念仏者にぞならせ給ひてはべるらん。法華経をすてゝ念仏者とならせ給はんは、峰の石の谷へころび、空の雨の地におつるとおぼせ。大阿鼻地獄疑ひなし。大通結縁の者の三千塵点劫をへ、久遠下種の者の五百塵点を経し事、大悪知識にあひて法華経をすてゝ念仏等の権教にうつりし故なり。一家の人々念仏者にてましましげに候ひしかば、さだめて念仏をぞすゝめむと給ひ候らん。我が信じたる事なればそれも道理にては候へども、悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人々なりとおぼして、大信心を起こし御用ひあるべからず。大悪魔は貴き僧となり、父母兄弟等につきて人の後世をばさうるなり。いかに申すとも、法華経をすてよとたばかりげに候はんをば御用ひあるべからず候。まづ御きゃうざくあるべし。
念仏実に往生すべき証文つよくば、此の十二年が間、念仏者無間地獄と申すをば、いかなるところへ申しいだしてもつめずして候べきか。よくよくゆはき事なり。法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき。このごろの人の申すことこれにすぎず。結句は法門はかなわずして、よせてたゝかいにし候なり。念仏者は数千万、かたうど多く候なり。日蓮は唯一人、かたうど一人これなし。いまゝでもいきて候はふかしぎなり。今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うつたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、うちもらされていまゝでいきてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。第四の巻に云はく「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや」と。第五の巻に云はく「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。日本国に法華経よみ学する人これ多し。人のめをねらひ、ぬすみ等にて打ちはらるゝ人は多けれども、法華経の故にあやまたるゝ人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだ此の経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよ読みはべれ。「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。
もしさきにたゝせ給はゞ、梵天・帝釈・四大天王・閻魔大王等にも申させ給ふべし。日本第一の法華経の行者日蓮房の弟子なりとなのらせ給へ。よもはうなき事は候はじ。但一度は念仏、一度は法華経となへつ、二心ましまし、人の聞にはゞかりなんどだにも候はゞ、よも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ。後にうらみさせ給ふな。但し又法華経は今生のいのりとも成り候なれば、もしやとしていきさせ給ひ候はゞ、あはれとくとく見参して、みづから申しひらかばや。語はふみにつくさず、ふみは心をつくしがたく候へばとゞめ候ひぬ。
恐々謹言。 十二月十三日
日 蓮 花 押
なんでうの七郎殿