生と死ということを全体的、客観的に見て、聖者がこれを示されるとき、世の中のすべては生死の二法であると説かれる。
天地、日月、五星より、あらゆる十界の存在がすべて生死の二法である。生死とは、詳しくは生・住・異・滅で、すべての存在は生じ、存続し、変化し、消滅するのであり、日月も永遠の時間のなかで例外ではない。しかし、我々の生死の主観的立場から言えば、生についても、そのなかで色々な苦しみが多く、行く先の安定が得られず、死についても、それがどのようなもので、その先がどうなっていくのか解らないところに不安や恐れがつきまとう。また、仏教の因縁果報の法則によれば、生まれる前や生存中の様々な善悪の行為の報が、死の時の一念に現れると言う。
故に悪報は、その程度によって地獄、餓鬼、畜生等の拙い果を感じ、善報もその程度により、人間、天上乃至、仏、菩薩の一念を感じ、そこへ生ずると言う。しかし、これは一往の善悪の果報である。
大聖人は、この意味をことごとく含み具える法界全体の命を妙法蓮華経と示され、衆生の生死の一大事とは、仏の最高の悟りである上行付嘱の法体の妙法を受持し、唱えることであり、そのところにすべての生死の苦難より救われる唯一の道があることを示された。
これは、妙法蓮華経があらゆる差別と平等を貫き、すべての善悪を超越した大善の法であり、天地法界のすべてに通ずるので、このような広大な利益を得るのである。
故に、本門の題目は生死を正しく解決する大道である。
強盛の大信力を出だして南無妙法蓮華経を唱え、臨終正念と祈ることが、生死一大事の血脈である。