名称の由来
「講」とは、本来は経典を講義したり、仏の徳を讃える法要のことでしたが、のちには、信仰する人々の集まりを指すようになりました。
「法華講」とは、末法の法華経、すなわち、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の教えを信じて実践する人々の集まりをいい、大聖人自らつけられた名称です。それは、本門戒壇の大御本尊に、
「願主弥四郎国重法華講衆等敬白」
と認められていることからも知ることができます。
第二祖日興上人のお手紙の中にも
「さどの国の法華講衆」
と記されているように宗門草創の時代から、本宗信徒は「法華講衆」と呼ばれていたのです。
法華講の歴史
法華講の起こりは、不惜身命の折伏と護法を貫きとおした富士熱原地方の信徒にあります。
熱原の法華講衆は、入信して間もない人々でしたが、めざましい折伏弘教を展開しました。このため、法華講衆は、正法の興隆を妬む者たちの策謀によって幕府の弾圧を受け、二十名が亦らえられて鎌倉に連行され、信徒の中心者であった神四郎等三人が斬首されるという事件が起こりました。
これを「熱原の法難」います。
熱原の法華講衆は日興上人のご指導のもと身命におよぶ迫害を受け熱原三烈士の墓と顕彰碑(総本山大石寺)
ながら異体同心して、日蓮大聖人の教えを護りとおしました。
日蓮大聖人は、このような弟子・信徒の護法の姿をご覧になり、仏として世に出現した目的今果たすべき時を感じられ弘安二年(一二七九)十月十二日に本門戒壇の大御本尊を建立されたのです。
布教の自由が認められない封建時代でも、法華講衆は折伏弘教の信心に励んできました。その一端として、江戸時代中期から幕末にかけて、江戸・加賀(石川県)・尾張(愛知県)・八戸(青森県)・仙台・讃岐(香川県)などで、正法流布を阻止しようとする様々な弾圧と彫つてきた歴史があります。
布教の自由が認められた現代にいたり、法華講は国内のみならず世界各国に日蓮大聖人の教えを弘め、民衆救済の波動を起こしています。