貧女
昔、ある貧女の家に穴蔵があり、そこにはたくさんの金が貯蔵されていた。そのことを貧女は、幼少にして父母と死別したので少しも知らなかった。彼女の生活はたいへん貧しく、ここでは人の機嫌をうかがい、うかがいして洗濯をし、かしこではその日の口を養うために米をしらげ、麦をついて生活をしていた。毎日が苦労の連続であった。
時に、ある人が貧女に言うのには、「どうしてその方はこのようないやしい業(なり)をして、あさましい姿をしているのか。わからないのか、その方の家には金のたくさん積み込まれた蔵があることを。それを掘り出して使いなさい」と教えた。
貧女は「いや、自分の家にはそのような蔵はない。私は知りません」と言うと、彼の人は「蔵は大分ちり、あくたが覆(おお)って見えないので知らないのも仕方ないが、必ずそこにあるから早々にちり、あくたを除いて掘り出しなさい」と言った。よって貧女は、教わったように一心にちり、あくたを除いて掘り返してみると、蔵の口まで掘りつけることができた。“うれしい”と思って蔵の口を開いてみると夥(おびただ)しい金があった。貧女はその金を掘り出して大福長者となったのである。
これは涅槃経如来性品に説かれたもので、妙楽大師は『弘決』等に六即に当てて依用している。すなわち、貧女とは世・出世にわたって福慧のない者のことで、彼女の家の中には金の蔵があるとも知らず種々、様々な苦労をするのは、私達が妙法蓮華経の当体であることを知らない理即の位に当たる。ある人にその方の家の中には金蔵があるから、ちり、あくたを除き、掘り出すように言われて貧女が喜ぶのは名字即の位。教えの如く、ちり、あくたを除くのは観行即。掘りつけて蔵の口まで近づくのは相似即。正しく開くのは分真即。最後に大福長者になるのは究竟即の位に当たる。
さらに日寛上人は「金は知る、知らずにかかわらず貧女のものであるから、他に求めてはいけない。また、いかほど金蔵があると知っても、掘り出さない限り何の用もなさない。同様に、いかほど我が身が妙法蓮華経の当体でも、修行がなければ我が身の如来は顕われない。信心をこらし、南無妙法蓮華経と唱えることが肝心である」と仰せられている。
(序品談義・歴代法主全書四-九二)