熊と樵の不知恩
昔、ある人が山に入り木を伐(き)っていたが、帰り道が判らなくなり困惑していた。運悪く暴雨に遇い、日も暮れ飢寒していた。悪虫、毒獣がこの人を侵害しようとねらっていた。
たまたま、そこに石窟を見つけたので避難して身体を休めようと窟中に入ると、そこに一頭の大きな熊がいた。恐怖のあまり外に飛び出すと、熊は、「汝、恐れることはない。この舎は暖かだから中に入って泊まっていきなさい」
と言った。
雨は一時も休むことなく、七日連続して降り続いたが、この間、熊はこの人に甘果と美水を与えていた。八日目にして、ようやく雨もあがり、熊は男に道のある所まで案内した。
熊は別れ際に、
「私は罪深く、恨みをかっているので、もし私のことを聞く人がいても私を見たとは、けっして言わないでください」
と言った。男は「約束を守る」と言い、礼を言って山道を下りて行った。
しばらく行くと、多くの猟師が狩りをしていて、男に、
「汝はどこから来たのか。途中で獣を見たか」
と聞いてきた。男は愚かにも、
「一頭の大きな熊を見たが、私はその熊に恩があるので、あなた達に居場所を言うわけにはいかない」
と答えた。
「汝、人は皆、これ親しい仲ではないか。なぜ熊を惜しむのか。もう一度、道に迷えば来れないであろう。汝が私に居場所を教えてくれたならば、お礼に肉をたくさん分けてあげよう」
と言った。男は熊との約束を捨てて、猟師を案内して熊の舎を教えた。
猟師は熊を殺し、肉を裂いて多く男に与えた。男が手を伸ばして肉を受け取ると両肘がポロッと地に落ちた。猟師が、
「汝は何の罪があるのか」
と問うた。男は、
「この熊が私を見ること、父の子を見るようであった。私は今、恩に背いたのでこの罪を得た」
と言った。
猟師は恐怖のあまり、あえて肉を食べず持ち帰って衆僧に供養した(余談だが、沙門は乞食(こつじき)して食を得ていたので信徒の出す物はすべて食した。そのなかには肉も五辛もあった。沙門が精進料理しか食さなくなったのは後になってからである)。その時、上座の僧が下座の僧に、
「この熊は実は菩薩である。未来世には仏になるであろう。この肉を食してはいけない」
と言って塔を建てて供養した。
王は、このことを聞いて国内に勅を下し、不知恩の者を国から追放したのである。
これは『仏説本生経』に説かれていて『大論』に引用されている。日寛上人は不知恩の者を「大賊」と言われている。
(歴代法主全書八巻)
(高橋粛道)