魔によって臨終を妨げられた法師
鎌倉時代の昔は、一般に出家の妻帯は認められていなかったが、ある山寺の法師は女人を好きになり、相思相愛となり結婚して夫婦生活を営んでいた。
やがてこの法師は重病となり、なかなか快方に向かわず長い間、患っていた。それを妻は丁寧に看病してくれたので安心できた。そのため弟子などが見舞いにくることは希(まれ)であった。この分だと臨終を安心して迎えることができるであろうと思っていたが、既に長患いをしており、心配でもあった。
もとより法師には道心があり、しばしば仏を念じていたが、これで最後と思って端座合掌して静かに仏を念じていると、妻は「私を捨ててどこへ行くのですか、悲しいわ」と叫んで法師の首に抱きついて引き臥(ふ)せた。法師は「ああ悔しい、心安く臨終させてくれ」と言って起き上がると、またも引き倒すのであった。法師が声をあげて仏を念じると、また引き倒されて、そのまま死んでしまったのである。
このような臨終の在り方は、けっしてあるまじき様子に見えたし、これは悪魔の障礙(しょうげ)するところであろうか。
これは無住の『沙石集』に記されている。日寛上人は『臨終用心抄』に、臨終に心の乱れる理由に
一、断末魔の苦しみのために。
二、魔の所以。
三、妻子眷属の嘆きと財宝等への執着。
の三点を挙げて、臨終正念の妨げとなることを説かれている。ここでは二の、魔によって臨終正念を妨げられる例を紹介されたのである。
「爾前権門の行者さえ、こうであるのだから、当宗の行者はもっと強い魔障が現れるであろう、それは必ず成仏できる宗教だからである」と、日寛上人は仰せである。
(歴代法主全書八巻)
(高橋粛道)