鮮白比丘尼
釈尊がカビラエ国のニクダ樹下におられた時、この国の城内に一人の長者がいた。名を瞿沙(くしゃ)という。瞿沙は多くの女性の中から最良の一人を選んで妻とした。
特に瞿沙は音楽を作るのを娯楽としていた。やがて彼の妻は懐妊し、一女児を出生したが、その子は端正にして、すこぶる美人であった。不思議にも、この子は白浄の衣(ころも)に身を包まれて生まれたので、この因縁により白浄と名付けられた。
白浄が日を追って成長するに従い、衣も大きく伸びていき、衣はいつも浄潔にして鮮白(せんびゃく)であり、洗濯することも染め直すことも必要なかった。
若者は、これを見聞して競って自分の妻にしたいと言ってきた。けれども白浄は両親に、
「私は今、世俗の栄華など欲しくありません。ただ出家したいのです」
と言うのであった。
父母は子を深く愛念していたので、その心を察して反対もせず、仏の所に連れて行って出家の許可を願ったのである。仏は、
「よく私の所に来ましたね、比丘尼よ」
と述べると、白浄の頭髪は自然に落ち、身に着けた衣は袈裟(けさ)と変じて比丘尼の姿になったのである。
仏道に入った白浄は、よく精進し、すぐに阿羅漢果を得、三明六通・八解脱を具足した。そのために諸天や世人の敬仰するところとなった。
その時、ことの始終を見ていた阿難が仏に、
「この白浄比丘尼は、前世にどういう福をうえ、なぜ浄衣に身を包んで生まれ、出家してわずかの間に聖者になれたのですか」
とお尋ねした。すると釈尊は、
「賢劫中(大昔)、波羅奈(はらな)国に迦葉仏がおられた時、仏が多くの弟子を将(ひき)いて衆生を教化していたところ、たまたま一人の女性がその中にいた。この女人は仏や僧を見て大いに歓喜し、手に持てる細毛の布を仏と僧に供養し、願を発して去って行った。この功徳により白浄は浄衣を纏(まと)って人天に生まれ、今、私(釈尊)と遇って出家し道果を得たのである」
と述べ、重ねて、
「彼の時、布を供養したのは白浄比丘尼、この人である」
と述べたのである。白浄は別名を鮮白比丘尼ともいう。
これは、日寛上人が『法衣供養談義』に『撰集百縁経』を引用して「出家への供養の大切さ」を述べられたものである。
(歴代法主全書八巻)
(高橋粛道)