死出の山にては良馬となり
大昔、ある島に夜叉(やしゃ)という人食い鬼達が住んでいた。ここは女ばかりが住んでいる島で、夜叉は人間の姿を見るとなまめかしい美しい女に化けるのであった。
時に五百人の商人が一獲千金を求めて、船で他国に渡ろうとして出帆した。どの位、船は進んだのか、何日経ったのか、その日は今までに一度も経験したことのない突然の暴風雨に遭い、船は木端微塵(こっばみじん)に破壊されてしまったのである。
幸い島が近くにあったので、ある者は自力で泳ぎ着き、またある者は端木に掴まって救(たす)けを求めていた。この有り様を見た夜叉は美しい女に化けて商人達を全員、陸に救けあげた。この島を羅刹(らせつ)国という。
ようやく救けられた商人達が我に返り、礼を言おうと顔をあげると、そこにいるのはすべて女であった。しかも一人の例外もなく絶世の美人ばかりであった。どうやら、この島は女ばかりの島であるように思った。王女のような一人の女が、
「あなた方はどこから来られたのですか。もう何も心配いりません。ずうっとこの島にいてください」
と微笑むのでした。
商人達は身体の疲労と、船も無く、どうすることもできなくなったので、その女の志に甘えて少しの間ならと滞留する決心をした。しかし、生き別れた故郷の妻子を想うと悲しさが込みあげてくるのであった。
女達はそんな心をいたわりながら、商人達を羅刹城に案内した。浜から羅刹城に至る道は塵一つなく、一面青々とした草が生い茂り、無数の好樹が植えられていて実がなり、鳥が遊集している。
また大きな池には色々な奇麗な花が咲いていて、ここにも鳥達が戯れていた。こういう美しい情景を見た商人達は皆、嬉しくなり、離別の悲しさなど消えていった。
その羅刹城は四壁が真っ白で、まるで氷山のようであった。城の中に入ると何種類もの香りのよい風呂がわいていて、商人達は薄汚れた衣服を脱ぎ捨て、疲れきった体を湯槽(ゆぶね)につけ、沐裕(もくよく)を楽しんだ。
そして美しい衣裳に着替え、心地よいソファーに深々と腰かけ、周りからは美しい調べが流れ、美味しい食べ物は山と積まれていて充分にお腹(なか)を満たし、まるでおとぎの世界の主人公になったような気分であった。
商人達は、来る日も来る日も何不自由なく五欲に浸っていた。女達とは恋(こ)われるままに結婚し、子供も一人、二人と出来た。女達は次の難破船が来たら食い殺そうと思っていたが、微塵もその気配を見せずサービスに努めた。
しかし、楽しかるべき生活も慣れてくると、まことに単調で嫌気(いやけ)がさしてくるものである。商人達は早く、ここを抜け出して故郷の父母や妻子に合いたいと思うようになってきた。望郷の念である。
そんな中で、一人の聡明な商人がずっと前の、初めて城に歓待された時に女が、
「けっして南の鉄城に行ってはなりません」
と言った言葉を思い出した。
「なぜ女はあんなことを言ったのだろうか、何か秘密があるのかもしれない。女が寝静まったら、そこに行ってみよう」
と思った。
女が熟睡しているのを確認して、男は音をたてないように利刀を握って静かに足を運んだ。なんとも形容し難い恐怖が全身を覆った。しばらく歩くと空をついて、どこからか 「ギヤー」とか「ギェー」とかいう、大叫喚地獄さながらの人の叫び声が聞こえた。あまりの恐ろしさに血も凍り、毛が逆立ちするほどであった。
それでも恐る恐る前に進んで行くとそこに大きな鉄城が見えた。声はこの城の中から聞こえたのである。入口がないものかと城を一周したが、城は高い塀で囲われ、門はすべて閉ざされていて入る所はなかった。
しかし、ふと見ると城の北面に巨木が一本立っていた。男は樹によじ登り、城下を見た。すると、そこは地獄さながらの有様であった。百以上の人間の死体が転がっており、半分食いちぎられている者や、手足だけが散らばっていたり、飢渇(けかち)のため痩せ細った者、眼目の欠落している者達がいた。中には互いに相手の肉を食いちぎっている者もいた。それが先程の叫喚の声であったのである。
あまりの恐怖に身の毛もよだつ思いであったか努めて心を落ちつかせ、樹の上から小枝を揺すって存在を知らせた。それに気付いた者達は男に向かって、
「貴方はどなたですか」
と掌(てのひら)を合わせて跪(ひざまず)いて拝み、
「ぜひ妻子のいる所に連れて行ってください」
と、掌をすり合わせて頼むのであった。男達は商人が、自分らを救ってくれる仏様に見えたのである。無理もないことである。商人は手を横に振って、
「私は仏でも天でもなんでもない。ただ財を求めて海に出たら、途中、大風に遭い、難破して女達に救けられ、今は楽しく女達と生活をしている者です。貴方達を救うことなどできない」
と言い、商人は、
「なぜあなた達はここにいて、そんなひどいめに遭っているのですか」
と尋ねると
「実は、私もあなたと同じく、ずっと前に財を求めて海を渡り、途中で難破して女達に故けられて楽しい生活をしていたのです。ところが、この女達は次の難破船を見ると私達を鉄城に閉じ込め、毎日、仲間を食いちぎり、今では半分の二百五十人だけになってしまいました。私は今日か明日には食われてしまうでしょう。女達は自分で産んだ子供まで食い尽くしてしまいます。あの女達は、本当は羅刹(鬼)なのです。だまされてはいけません」
と言った。商人は怖くなり
「ここを抜け出る方法があったら教えてほしい」
と言った。すると、
「四月十五日の満月の日に鶏尸馬王(けいしばおう)が海岸に来て、人間の声で 『誰か、この島を抜け出たい者はいないか。すぐに生国に連れ戻してやるぞ』と嘶(いなな)くから、その時にお願いしなさい」
と言った。商人は、
「あなた方は鶏尸馬王を見たことがあるのですか。もし見たならば、なぜ近づかなかったのですか。どうして救けてもらえなかったのですか。あなたは誰から抜け出る方法を聞いたのですか、その話は一体、本当なのですか。嘘なのですか」
と言った。
すると彼らは、
「私達は虚空より鶏尸王の声を聞いたけれども行けなかった。中には行った者もいたけれども、羅刹への愛着が強く引き返してしまった」
と言った。それなら、
「今、私と一緒に彼の馬王の所へ行こう」
と言うと
「それは不可能だ。私は一度しかないチャンスを逃(のが)してしまった。自分が塀をよじ登ろうとすると塀は増長し、それなら地を掘って出ようとすると穴が塞がってしまう。私達は逃げられないけれども、どうかあなた達はつまらない欲心を捨てて逃げてください」
と言うのであった。商人は聞き終わって、またも恐怖に襲われた。樹を降りると鉄城から叫喚の声が聞こえた。
商人は恐る恐る道を引き返し、気付かれないように床(とこ)に就いた。すぐに仲間を起こして、たった今、見聞した恐ろしい経緯(いきさつ)を話したい衝動にかられたが、このことが漏れて羅刹の耳に達したら、残らず鉄城に閉じ込められてしまうので自分の胸の内に秘しておいて、四月十五日の満月の日を待つことにした。
一日一日が長く感じられたが、いよいよその日がやってきた。彼は仲間の商人達に自分の見聞した一切を話した。女達が寝静まっている中を静かに足を忍ばせて海辺に向かった。鶏尸馬王は、
「誰かこの島を抜け出たい者はいないか。すぐに生国に連れ戻してやるぞ」
と三度、嘶いた。その際、鶏尸馬王は、「お前達を、私は必ず生まれ故郷まで連れて行ってあげよう。しかし、間もなく羅刹共は逃げられたことを知って、ここまで追いかけてくるであろう。その時に愛着の想(おもい)を起こして、後ろを振り向いてはいけない。振り向いたら最後、たとえ背の上に乗っても必ず振り落とされてしまう」
と注意を与えた。そして自分の毛でも足でも、どこでもよいから掴まるように指示すると、空に飛び上がり風のように去った。
すると諸羅刹女は、彼の鶏尸馬王の声を聞いて眠りから醒(さ)め、そばにいるはずの男達がいないのを知って逃げられたと思い、すぐさま追いかけてきた。そしてはるか彼方、空中の商人達に、
「あなた達は私達を捨ててどこに行くのですか。私を未亡人にしてしまうのですか。あなたはここの主人ですよ。命を救けてやったのに恩知らず。どうして行ってしまうのか。それならここにいる子供も連れて行って」
と、羅刹女は気を引こうと何度も叫んだが、誰一人、振り返る者もなく、鶏尸馬王は全員を商人達の故郷に帰したのである。
この鶏尸馬王とは御本尊である。
これは日寛上人が 『妙法曼荼羅見聞筆記』に、御書の『妙法曼荼羅供養事』に示される、
「此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり、冥途にはともしびとなり死出の山にては良馬となり・天には日月の如し・地には須弥山の如し・生死海の船なり成仏得道の導師なり」(平成御書689行・全集1305頁)
の御文のうちの 「死出の山にては良馬となり」の一文を説明するために「仏本行集経」を引用されたのである。
五百の商人が鶏尸馬王の教えを守り、羅刹の誘惑に振り向かなかったことで、鬼の餌食にならずに済んだように、私達が専ら他宗への執着を捨てて、御本尊に無二に帰依するなら、死後もやすやすと死出の山を飛び越えて仏国土へ渡ることができるのである。
(歴代法主全書六巻)
(高橋粛道)