創価学会
告発本から見える惨状
本年初頭、『創価学会よ、大改革を断行せよ!』なる書が出版された。内容は現
役の創価学会員有志らが、学会の悲惨な現状を吐露し、その全責任は無為無策な執行部にあると告発して、彼らなりの改革案を提示するというもの。
しかし有志らが、いかなる主張をしたところで、池田大作を偉大な指導者と思い込む洗脳の呪縛から解放されなければ、根本的解決にはならない。大作こそが、諸悪の根源だからだ。
その洞察がない以上、一読の価値もない本と言わざるを得ない。だが、同書で繰り返し語られる学会の惨状を憂う悲痛な訴びは偽らざる本心であろうし、学会本部が発信する 大本営発表が虚飾であることを浮き彫りにするものではある。以下、同書で述べる学会の惨状(趣意)列挙してみたい。
「どの会合に出ても、また本部幹部会の衛星中継」を観ても、会員同士で話す言葉の中にも、将来を展望し、夢と希望にあふれた話は皆無」
「複数の地区を調査したところ、勤行をしない会員が七十パーセント余りに上る」
「最近では折伏を地道に行っている会員は、皆無に等しい」
「広宣流布の定義や学会の目的が曖昧で、混沌として無気力な状態」
「あと三十年も経てばガタガタに落ちぶれてしまうのは必至」
「昨今は内部で非常に人間関係のトラブルが多い。本来信仰すればそのようなトラブルは起きないはず。御本尊と題目に力がないのか」
「学会では日本は既に広宣流布したと言うが、日本はそんなに変わっていない。むしろ悪くなっている」
以上の有り様を概観すると、機関紙などで謳う美辞麗句の数々が嘘八百であることが判る。
路頭に迷う学会
特に同書では、
「羅針盤のない船のように、どこへ向かい、何を目的としているのか判らない」(趣意)
を極々述べている。
さもありなん。大作の増上 慢に起因する大謗法の結果、宗門から破門された学は、本来の目的・使命を見失い、まさに路頭に迷っているのである。
今さら語るまでもなく、初代・二代会長が生み育てた学会の本来の目的は、
「この会は、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」(昭和五十四年四月二十四日の会則)
ことに他ならない。それ故にこそ、戸田ニ代会長は、
「私たちは無知な人々をみちびく車屋である。迷っている人があれば、車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内していくのが、学会の唯一の使命で、ある」(戸田城聖全集3-113ページ)
と述べていたのだ。
今や広布の根源である本門戒壇の大御本尊を捨て去った学会は、目的なく彷徨う泥舟であり、衰亡の一途をたどっていることは毫もも疑いない。
大謗法の現証と知れ
現在の学会には夢や希望はなく、信心の功徳とはかけ離れた状況であり、多くの学会員が様々な苦悩に喘いでいる。
その根本原因は、本の信仰の命脈たる大御本尊と唯授一人の血脈を捨て去ったことにある。
殊に、大御本尊の御法体を伝持あそばす血脈付法の御歴代上人に悪口誹謗の限りを尽くし、下種三宝の允許のない『ニセ本尊』を勝手に作製するなど三宝破壊の大謗法に対しては、き然たる仏罰が現われることは必定である。
学会員の皆さんには、ぜひとも沈思黙考してもらいたい。
大石寺の御歴代上人の御本尊を拝みながらも、その御法主上人への怨念を日夜、刷り込まれている悲惨な現状。この支離滅裂な悩乱の所業こそ、大謗法の現証に他ならない。
今ならまだ間に合う。勇気を振り絞って泥舟の学会決別し、生死海を渡る大船たる本宗の信仰に立ち帰るべきである。