創価学会
「弘安二年の御本尊は受持の対象にはいたしません」 (聖教新聞 平成二十六年十一月八日付)
創価学会は、会則から「大御本尊」を抹消し、事実上、成仏の根源である日蓮大聖人の出世の本懐を棄てた。
今や学会は、異流義の枠を大きく越え、かつて自分たちが破折してきた身延日蓮宗や立正佼成会、霊友会で等の日蓮系と言われる教団と、何ら変わらない邪教団に成り果てた。そしてこの変貌は、坂道
転がるように、今後も止まることなく加速度を増していくだろう。それが正法に弓を引く大謗法団体の末路である。
前言180度撤回の不条理
学会は、昭和五年の創立以来、日蓮正宗の信徒団体として、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈法水の御法主上人に信伏随従し、
「もとより、日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は永久にありえない。 信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会はそれを民衆に知らしめる折伏の団体 (趣意)(同 昭和五十五年四月二日付)
と、その立場を明確にしてきた。
また、平成二年に破門されてからも、長らく、
「大御本尊が根本。これからも変わることはない(趣意)」(同 平成五年九月十九日付)
と一貫して指導してきたのである。
破門と同時に本尊も変えたなら、宗門と大御本尊を共に棄てたということで判りやすい。しかし、発足以来、実に八十五年以上も拝してきた根本の御本尊を、何の前触れもなく突然棄てたのである。しかも、事もあろうかその重大発表を、機関紙の三面に会則変更としてちょろっと掲載しただけでいとも簡単に、一閻浮提総与の大御本尊を棄て去ったのである。
文証なき邪義
また、会則改変の主張を見るに大御本尊放棄を是とする文証を何一つ挙げていない点も看過できない。無論、そんな御文はどこにもないから、提示できるはずがない。
天台大師は、「文証無きは、悉く是れ邪謂なり」(法華玄義釈籤会本 上一三五三)
と示され、大聖人は、
「文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用ふべからず」(御書 三〇七ページ)
と仰せであり、文証なき主義主張は「邪謂」「我意の浮言」として棄てるが道理。
もとより、御書根本を標榜していながら、信仰の対象を変更するという一大事に御書の一遍も示すことができないのだから、会員一同「絶対におかしい」と思うべきなのだ。
文証なき妄言を吐く学会は、大御本尊を棄て、大聖人を蔑む大謗法を犯し続けているのである。
心を踏みにじる所業
知るにせよ知らぬにせよ、平成二十六年の会則改変までは、会員たちが初めに信心した信仰の対象は本門戒壇の大御本尊だったはず。 それを、長い年月を経た後に、いきなり「棄てろ」とは、古今の学会員たちの信心を真っ向から否定することに他ならない。
自分たちの都合のいいように、自分勝手な言い分をダラダラと書き連ね、全くもって判然としない会則の改変によって、学会は会員たちから、一方的にその拠り所を棄てさせたのである。
何度でも言おう。 創価学会は戒壇の大御本尊を棄てたのである。実際に、ある法華講の折伏活動では、大御本尊を破棄した事実を知らなかった会員が、かなりいたと聞いている。
この件に関して言えば、何も知らない会員たちは、むしろ被害者か。信心を踏みにじられた会員たちは、恐れず声を上げるべきなのだ。
大聖人は、
「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」(同九六二ページ)
と仰せである。これまでに犯した正法誹謗の罪も、心から懺悔して正法を受信行するならば、必ず消滅させることができる。
我々は、一人でも多くの学会員が再び戒壇の大御本尊を受持し、大きな功徳を賜ることができるよう、慈悲の折伏を行じていこう。(大白法 令和5年4月1日号より転載)