昨年十一月に発刊された『創価学会教学要綱』(以下要綱)を見ると、現在の創価学会がいかに迷走して
いるかがよく判る。
その内容たるや、日蓮大聖人の御正意から大きく逸脱したトンデモ本。矛盾だらけで、支離滅裂ぶりは、監修者の池田そのものを見ているようだ。
実例として『要綱』における「法華経観」を見てみよう。
法華経は釈尊の直説ではない?
昨今の一般仏教学では、法華経をはじめとする大乗経典を、釈尊が実際に説いたものではないとする説がある。
しかし大聖人は、
「我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり」(御書 四三九)
「我等が本師釈迦如来、初成道の始めより法華を説かんと思し食ししかども(中略)先づ権教たる方便を四十余年が間説きて、後に真実たる法華経を説かせ給ひしなり」
等と諸御書の中で法華経および一切諸経は仏の金言すなわち釈尊が実際に説かれたものとお示しである。
それに対して『要綱』では
「大乗仏教の起源について様々な仮説があり結論は出ていないが、紀元前後頃から多種多様な大乗経典が編纂されていったことは確かな事実である。その中で(中略)新しい思想を提唱する経典も誕生した。その一つがあらゆる衆生が成仏できることを説く『法華経』である」(要綱二四ページ)
と、一般仏教学に迎合するように、大乗仏教および法華経は釈尊の直説ではないとしている。
その上で、
「『法華経』は、万人の幸福を願った釈尊の思想と行動を、新たな形で復活・蘇生させたもの(中略) 万人の幸福の実現という釈尊の願いを願った釈尊の願いを正しく説き表した、大乗仏教の真髄ともいうべき経典」(同二七ページ)
と、法華経は釈尊が実際に説いたものではないが、釈尊の精神に適っている経典などと評している。
妙法五字は誰が説いたのか
このように『要綱』では、法華経について「釈尊の願いを正しく説き表した」などと釈尊の御意に適った正しい教えのように主張するが、それはもう仏の金言ではないということになる。
では、法華経は実際に誰が説いたというのか。
釈尊直説を認めない以上、久遠実成も上行等の地涌の菩薩も結要付嘱も、さらには妙法蓮華経の五字
までもが虚安となってしまう。
先にも述べたように、大聖人は御書中の至る所で明確に釈尊の直説であるという立場を示し、「大難四カ度、小難数知れず」といわれる御一期の御化導は、法華経の身読であると仰せになっている。
そして、法華経 『寿量品』の肝心・文底秘沈の大法である南無妙法蓮華経を、『寿量品』を説かれた
虚空会の儀式の相を借りて、大漫荼羅本尊として顕わされた。
『要綱』では、
「『御書根本』『日蓮大聖人直結』の立場から、大聖人の仏法の本義に基づき、創価学会の教学を形
成してきました」(要綱1ページ)
などと記すが、その内容たるや、大聖人の法門を明確に否定するものだ。どこが「御書根本」「大聖人直結」 なのか。
もはや、大聖人を御本仏と拝する意義はどこにもないし、大聖人の仏法を奉戴する理由すらないことに気がつかないのだろうか。
御本仏に背く大罪
この『要綱』の法華経観一つを見ても、いかに学会明が大聖人の仏法を都合よく用いているか判るだろう。
大聖人は『佐渡御書』に、
「日蓮を教訓して我賢しと思はん僻 人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし」(御書五八三ページ)
と、学会のごとき謗法者の堕獄の罪科が本当に憐れであることを仰せである。
学会員は、この御金言を胸中に銘記し、迷走する学会の罪科を恐れて、一日でも早く、正法へ帰依するべきである。
(大白法令和6年7月1日号より転載)