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ついに久遠元初の仏も捨てたー創価学会

 創価学会
 昨年に出された『創価学会教学要綱』(以下 要綱)には、学会独自の新たな教学を散見する。
 先に大御本尊を捨て去った彼らは、今度は久遠元初の本仏を捨てた。その教学の崩壊は止まらない。
久遠元初の仏を否定
 学会は『要綱』の中で、
「日蓮大聖人は、釈尊に代わって末法の人々を救う。その偉業を仰ぎ、創価学会では、大聖人を末法の御本仏として尊崇する(趣意)」(要綱 四八ページ)
「創価学会では、末法の万人成仏の法を明かした教主であるという意義から、大聖人を末法の御本仏と仰ぐ(趣意)」(同九五ページ)
等と説明している。要するに、日蓮大聖人は久遠実成の釈尊の代わりに末法の衆生を救済する妙法を留め置かれたことに感謝し、その意味から〝末法の御本仏”と称するというわけだ。
 回りくどい言い方でごまかしているが、大聖人を根本の仏と拝して御本仏”というわけではない、ということである。
 そして決定的なのは、『創価新報』の、
「日蓮正宗は、大聖人を久遠実成の釈尊より先に存在した仏だとして神秘性をことさらに強調し」
(創価新報 令和六年六月号)
との文章で、大聖人が久遠元初の本仏であることを完全に否定したのである。
学会の姑息なやり口
 本宗は、本因下種の教主たる宗祖日蓮大聖人を久遠元初の御本仏と拝し奉る。
 そして、本門戒壇の大御本尊は自受用報身如来の御当体にして人法一箇の御本尊であり、その御相貌は「南無妙法蓮華経 日蓮」なのである。
 久遠元初の仏を捨てた学会は今後、会館安置の本尊をどう拝すのか。
 久遠実成の釈尊も、妙法により仏となった存在であるから、妙法と釈尊には勝劣が存する。法 勝人劣では久遠元初の本仏とは成り得ず、人法体一も成り立たない。そういえば『要綱』には「元初」と同じく「人法」の語も一つも出てこないが……。
 宗旨の根幹たる久遠元初の本仏と本法の意義を棄てたのだから、いくら仏宝は日蓮大聖人だと言っても、正しく仏として拝せていない。
 これでは早晩、大聖人を仏と拝せない日蓮宗と同ずることになろう。
 『要綱』と同じく池田大作監修の『仏教哲学大辞典』には、
「久遠元初の自受用身(日蓮大聖人)が本仏でそれ以外はすべて迹 仏」(仏教哲学大辞典第三版七八一ページ)
「(本因妙の教主とは)久遠元初の自受用報身如来即日蓮大聖人のこと」(同一五四〇ページ)
「法本尊は、人本尊である日蓮大聖人の生命をそのまま図顕された曼荼羅御本尊である」(同1320ページ)等とある。
 かつては牧口・戸田の両会長をはじめ、池田も、大聖人は釈尊を超えた存在として”末法の御本仏〟と
言っていた。
 だから今回は反感を買わないように、中身だけ変えて言葉を残したのだろう。なんと姑息なやり口か。
 釈尊から選手交代して末法に妙法を残してくれた、それを尊崇する意味でのみ、大聖人を〝末法の御本仏というなど笑止千万、大なる過ちである。
 かように、尊崇の意味だけで”仏”というのだから、やがて池田も”本仏”と称されるのでは? いや、もうなっているか?
 ともかく、ここに学会は、釈尊を主、大聖人を従として、久遠元初の仏を捨て去ったのである。
 大聖人は末法御本仏
 かつて大聖人を久遠元初の御本仏と拝し、戒壇の大御本尊を受持していた団体は、宗門と全く異なる邪教と化し、その変質ぶりはとどまるところを知らない。
 宗門で学び得た教学を自分たちの都合で扱うが、教義の根幹から狂っているので、見る影もない全くの別物である。
 宗祖本仏義は、ただ本宗にのみ正しく存する。
 我々は、どこまでも正法正義を持ち、哀れな学会員を慈悲の折伏をもって救っていこう。
(大白号令和6年9月1日号より転載)

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