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名聞名利の権化(ごんげ)創価学会

創価学会
1/30/2018

相も変わらず、聖教新聞の一面には、池田大作への名誉授与の記事が掲載されている。かの名誉会長は、まだまだ名誉が欲しくてたまらないようだ。
創価学会のホームページを見ると、昨年末の時点で手にした名誉学術称号は三百七十余とのこと。他の会長や副会長でもなく、大作ばかりにメダルや勲章が授与されている。異常である。
これだけ貰っていたら、世間でも相当騒がれてもおかしくないのに、広く一般に報道されていないのはどういうことだろう。それは、受賞した経緯も含め、世間一般では報道する価値が全くないということだ。

身を飾る愚かさを知れ
どうして大作がこれほどまでに名誉に執着するのか。それは身を飾る必要があるからである。
つまりこういうことだ。
”権力”と”権威”という言葉がある。”権力”とは、強制的に相手を服従させる力のこと。これは、自ら誇示し行使(こうし)してこそ手に入れる力で、ベクトルは外へ向かっていると言える。
対して、”権威”は、同じく他人を従わせる力ではあるが、相手を”自発的に”服従せしめるものであるので、わざわざ力を振りかざす必要はない。これはベクトルが外から内に向かうものだ。
”権威”の具(そな)わっていない愚者は、周囲を従わせるために”権力”にものを言わせ、せっせと身を飾るのである。読者諸賢はもうお判りだろう。大作が世間的な名聞名利を求めるには理由があるのだ。
もともと具わっていない権威を振りかざさなければ、偽(いつ)わりの権威も、組織の統率・支配も、早晩失墜(しっつい)することが判っているからである。
中身のない人間ほど、外見を飾ろうとする。虚飾は内実が伴わない一つの証拠なのだ。正しく大作こそ、その典型的な例である。

要らないって言ったのに
かつて、本宗信徒であった大作はこう言っていた。
「いまの政治家は、やれ勲章をもらうとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって、自分の名だけ売って、金もうけするとか、めちゃくちゃの世界であります(中略)私ども創価学会員は、位もいらない、名前もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」
(聖教新聞 昭和三十八年八月三日付)
前言(ぜんげん)撤回はインチキ宗教の常套(じょうとう)手段だが、創価学会もご多分に漏れない。学会員には、大作の今と昔の言行矛盾を、今一度しっかりと見比べてもらいたい。
日蓮大聖人は、

「名聞名利は今生(こんじょう)のかざり、我慢偏執(がまんへんしゅう)は後生のほだしなり。嗚呼(ああ)、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」
(御書 二九六㌻)

と仰せられ、また総本山第二十六世日寛上人は、

「当世の他宗名利の輩、内徳を修せず専(もっぱ)ら外相を荘(かざ)る」(六巻抄 二〇九㌻)

と破折されている。
学会員は、名聞名利に狂う大作の虚飾に騙(だま)されず、仏法僧の三宝をことごとく破壊した、仏法上の彼の悪業を見破るべきである。

正法帰依を願う
最近、安保法改正に賛同する公明党・創価学会現執行部に対する反対運動が報道された。学会内部は何やら騒がしい様子だ。
もとより破門された団体の内紛など当方は無関係。しかし、末端の学会員が、創価学会や池田大作について、先入観を捨てて、もう一度よく考えてみる機会になるのなら、一利あるのかも知れない。

「積善の家に余慶あり」

ということわざがある。これは、善行を積んだ人の報いは、子々孫々まで伝わるという意味だ。
当欄を目にした学会員諸氏には、まだ”余慶”があったと信じたい。
どうか一度、勇気を出して日蓮正宗の寺院を訪ねてもらいたい。”余慶”が尽きぬその前に、一刻も早く正法に帰依すべきである。最後に申し上げる。

「一方的な情報に頼るのではなく、自分の目と耳で真実を知ろう」
「幹部の言葉ではなく、大聖人の御金言を信じよう」

(大白法 第九七四号 平成三十年二月一日)

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