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追善供養は致しませんー浄土真宗

諸宗教破折

 親鸞を宗祖とする浄土真宗は、東の大谷派、西の本願寺派の信者数を合計すると、一四六〇万人を超えるという。実に日本人の十人に一人以上は浄土真宗門徒であり、日本最大の仏教宗派である。
世間に浸透する用語
 最大の信者数を誇る宗派だからというわけでもないだろうが、浄土系の仏教用語が世間に蔓延っている例も少なくない。
 例えば「他力本願」という言葉は、俗に「自分の努力ではなく、他人が自分のために何かをしてくれることに期待する。人任せにする」という意味で使われるようだ。これは自力を否定し、他力すなわち、阿弥陀仏の力によってのみ救済があるとする教えから転じている。
 また「往生」という言葉も、俗に使われるようになった用語である。現世を去ってムの浄土に生まれることをいい、阿弥陀仏が荘厳する極楽浄土へ往生することを指すが、転じて「大往生」などと、人が亡くなることを言ったりもする。
 さらに、行き詰まって動きがとれないことを「立ち往生」と言ったり、悪いことをしてぎりぎりまで追い詰められた時、最後までその非を素直に認めようとせず、あきらめない態度を「往生際が悪い」などと言ったりもする。
 いずれにせよ、これらの言葉があまりよい意味として、世間に受容されていないように見えるのは、なぜだろうか。
追善供養は必要ない?
 この浄土真宗では、阿弥陀仏の救いや極楽往生を説くので、葬儀や法事は「往生」をかけた、さぞかし大事な供養の場と考えそうなものだが、そうではないらしい。
 追善供養について、浄土真宗の公式見解では、
「亡き人は阿弥陀仏の救いによってすでに浄土に生まれ、仏さまになっておられます。ということは、こちらから善を振り向ける必要はないのです」(浄土真宗 新仏事のイロハ 111ページ)
と述べている。つまり極楽往生した故人に対して、追善供養とか功徳を回向するという考え方は間違いであり、葬儀や法事そのものが不要だというのである。
 では、なぜ法事を修するのかというと、
「法事はあくまで、参拝者一人ひとりの『私のために』催される仏教行事なのです」(同)
「阿弥陀仏を敬い讃えて、その本願のはたらきであるお念仏のいわれを聞き、お念仏の人生を歩むことを確認し合う集い」(同110ページ)
として営むというのだ。
 そうだったのか。しかし、そうとは知らずに、故人を供養するためにと思い、浄土真宗の葬儀や法事に参列したならば、いきなり「今日は故人を供養することはいたしませんが、代わりに集まった皆様のために阿弥陀仏の教えを説きます」と言っているようなものではないか。
 もしや、開き直って「葬儀や法事を営まないと寺院の経営に支障をきたすので仕方なく受ける」などという事情があるのならば、まさに”往生際が悪い”と言うべきであろう。
法華経で成仏の直道を
 浄土宗の法然の教えでは、念仏を自分の意志で称えるという行為を自力とするが、浄土真宗の親鸞は念仏を称えることすら阿弥陀仏の本願力によるとし、一切の自力を捨て去る立場を取る。
 そこには自身の修行や自行の一切を否定し、善根を積み功徳を回向するという概念もない。当然、今世の娑婆世界での真の幸せは叶わず、残るのは厭世感のみで、ただ願うことは阿弥陀仏にすがり極楽浄土への往生のみである。
 日蓮大聖人は追善供養について『御義口伝』に、
「日蓮等の類聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ。廻向の文此より事起こるなり」(御書一七二四ページ)
と明確に御教示である。
 即身成仏の直道たる正法を信ずる我々は、世に蔓延する浄土真宗をはじめ、すべての念仏の謗法を断ずるべく、自行化他の信行を進めていこう。
(大白法令和7年3月16日号より転載)