諸宗教破折
年間三百万人という世界一の登山者数を誇る、東京都八王子市に位置する高尾山
その中腹に、真言宗智山派の大本山の一つ、高尾山薬王院有喜寺がある。
薬師如来はどうした
現在、薬王院の大本堂には、不動明王、迦楼羅天、歓喜天、荼枳尼天、弁財天の五体の仏と神が合体し五相合体の「飯縄大権現が祀られているという。
しかし、本来この寺は、天平十六(七四四)年、聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として行基によって開山され、当初「薬師如来」を本尊としていたことから、薬王院と名づけられたという経緯がある。
にもかかわらず、永和年間(一三七五年)に、京都の醍醐山より俊源が来て、沐浴しながら不動明王八千
枚護摩供を行い、飯縄大権現を感得したとして、これを本尊とする暴挙に出たのである。薬師如来はいったい、どこへ消えたのか。
多彩なアクティビティ
登山者数の多い高尾山には、多彩なアクティビティが用意されている。
例えば薬王院の大本堂では、真言密教の護摩供が行われる。法螺貝や太鼓の音と共に般若心経を読誦し、護摩壇において迷いや煩悩に見立てた薪を焼いて、所願成就を祈るそうである。
また、空海を祀る大師堂の周囲には、四国八十八カ寺の砂が配され、この砂を踏めば四国八十八カ所巡礼と同じ利益があるとした施設があったり、高尾山修験道の行事である渡火証がもらえる「火渡り祭」や、未明から登山をして護摩供を行う「信徒峰中修行会」、子供が滝修行や護摩供に参加する 「子供やまぶし修行体験会」もある。
さらには、高尾山に来るたびに押印してもらい、満行すると木札がもらえる健康登山や、自動車祈祷殿で、山伏による人車一本の「おはらい」ができたりと、何でもありな薬王院である。
独りよがりの修験道
そもそも飯縄大権現の信仰の起こりは、信州の飯綱山や戸隠山などを淵源とする修験道にある。
修験道の祖とされる役行者が悟ったという「蔵王権現」についていえば、「権現」とは本来、仏教においいて仏や菩薩が衆生を救済するために権りの姿をもって現れるものをいうが、蔵王権現は経文の証明がなく、道理の上からも荒唐無稽であり、役行者の幻覚の産物に過ぎない。
いかに人里を離れた山岳に篭もって厳しい修行をしようとも、因果の道理に基づく正境に縁しない限り、思いつきで独りよがりの誤った考えに陥ることは当然で、真の悟りを得られることは絶対にない。
飯縄大権現は単なる使者
また不動明王の変化身たる飯縄大権現についていえば、 そもそも真言宗では本尊を大日如来とするが、大日如来は実仏ではなく、 釈尊によって説かれた単なる法身仏、生国不明の架空であり、娑婆世界の衆生を救える仏ではない。
そして、この大日如来に仕える不動明王は、単なる使者(化身)であって、到底、衆生救済の力はない。
また飯縄大権現の眷属が神通力を持つ天狗であるとするが、深山に棲息するという想像上の怪物・天狗も、また然りである。
護摩供は外道の術
大本堂では、日々護摩供に精を出しているが、そもそも護摩は仏教ではない。釈尊は化導初期の阿含時に、
「バラモンよ。木片を焼いたら浄らかさが得られると考えるな。(中略)わたしは〔外的に〕木片を焼くことをやめて、内面的にのみ光輝を燃焼させる」(中村元訳『ブッダ悪魔との対話サンユッタ・ニカーヤⅡ』一四七ページ)
と、護摩の権威を、外道の行う呪術や迷信の一つとして早くから否定している。
これは他の真言宗の寺院で行っている護摩供も埒外ではない。
修験道や真言の護摩供などの外道義に頼っても、
「利根と通力とにはよるべからず」(御書 二三三ページ)
との日蓮大聖人の御教示のごとく、謗法の害毒を積むのみと知るべきである。
(大白法令和五年八月十六日号より転載)