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在家の理念より袈裟の権威ー本門仏立宗

諸宗教破折

「おほかたの 世捨て人には 心せよ衣をきても狐なりけり」とは、僧侶を狐に擬えた狂歌である。
 古来、狐は姿を変えて、人を騙すという。もともと本門仏立講という在家教団として発足しながら、いつの間にか僧侶と寺院を抱える出家教団へと変貌を遂げた本門仏立宗は、果たしてどうだろうか。
在家? 出家?
 本門仏立宗の開祖、長松日扇は、江戸時代の文化十四(一八一七)年、京都の商人の家に生まれた。雅号
を清風と称し、幼少から和歌や書道に優れていたそうだ。
 母の死を契機に日蓮宗八品派の京都本能寺で入信、出家した。当初、師匠は日扇を尼崎檀林(僧侶の学問所)に入れようとしたが、
「慢心の者とは学びたくない」と在学生から入学を拒否される。
 仕方なく師匠が骨を折り、上総(現在の千葉県)の細草檀林への入学を整えるも、今度は清風自らがこ
れを拒否。その理由が、ただ「友人の助言」だったそうだから、師匠も開いた口が塞がらなかっただろう。
結局、日扇は還俗し、在俗の身で独自の布教を開始する。
 そうしたなか、安政(一八五七)年、日扇は数人の信徒と華洛本門仏立講を創設。云わく、葬式など
に専念して御題目を弘めない自宗の僧侶や宗門に対し、苦しむ人々をお救いする真の仏教者として本門仏立講を開講したのだと。徐々に拡大する仏立講だったが、大津(滋賀県)で「キリシタンの邪教に同じ」と訴えられてしまう。
しかし、「出家者となれば布教活動を認める」と言われるや、日扇はあっさり再出家。翌年に八品派から宥清寺を与えられると、すっかり出家教団へと転身を遂げた。日扇の死後、昭和二十二(一九四七)年に仏立講は独立して「本門仏立宗」と改称、現在に至っている。
 それにしても、彼らは今でこそ、
「寺院は教講(僧俗)一体となって保持繁栄しう(趣意)」(本門仏立奈綱要 一二七)
と強言するが、在家教団としての創設理念はいったいどこに行ってしまったのだろう。
換骨奪胎の宗名
 本門仏立宗では、久遠実成の釈尊を本仏と位置づけ、日蓮大聖人を高祖(宗祖)、八品日隆を門祖、長
松日扇を開導の師として法脈の正当性を主張する。
 それは彼らが名乗る「本門仏立宗」という宗名にも表われているそう。大聖人の、
「法華宗は釈迦所立の宗なり(中略)故に法華経をば仏立宗と云ひ」(御書一三〇七)
との仰せを論拠に、「日蓮が命名した『仏さまが立てた宗』」という意味で名付けられたのだそうだ。
 しかし、前掲の御書(法華初心成仏抄)の続文には、
「伝教大師の釈に云はく、天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗と云へり」(同)
とあり、仏立宗の名称は伝教大師発祥であると示される。
 また『聖密房御書』には、
「天台法華宗は仏立宗と申して仏より立てられて候」(同七二七)
とあって、大聖人は天台宗の異名としてのみ「仏立宗」を用いている。
 結局、いくら「本門」とその上に冠しようとも、その宗名は他宗の異名を換骨奪胎したものに過ぎないのである。
群狐に笑はる、事なかれ
 他にも彼らの本尊に眼を転じてみれば、とても大聖人の御本尊をお写ししたとは思えぬ代物ばかり。題目のみの本尊や円形の本尊など、オリジナル本尊(?)のオンパレードである。
 そんな本尊を拝んでも、功徳がないのは火を見るより明らかだ。
 本来、在家教団を標榜して成立しながら、今や袈裟の権威に与る本門仏立宗。その宗名からも本尊からも、手を替え品を替えて人まやかそうとする、欺瞞体質が見え隠れする。
大聖人は、
「願はくは我が弟子等師子王の子となりて群狐にはる事なかれ」(同一三二二)
と仰せである。
 私たちは謗法の狐に騙されることなきよう、師子王のごとく彼らの邪義を喝破・粉砕せねばならない。
(大白法令和7年2月16日号より転載)