依義判文
依義(えぎ)判文(はんもん)
依義判文とは、「義に依って文を判ず」と読みます。義とは経文などに隠れた深義をいい、文とは文字によって表された一代仏教の経文などをいいます。
日蓮大聖人は、依義判文について『十章抄』に、
「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但し真実の依文判義は本門に限るべし」
(御書 466頁)
と御指南されています。爾前には爾前の経意は示されませんが、迹門の諸法実相の義に依って爾前の文を判ずれば、方便としての経意を表わすことができます。また迹門には迹門の化意は示されませんが、本門の真実の一念三千の義に依って迹門の文を判ずれば、垂迹の化導としての意義を表わすことができます。そして、ただ本門のみ、その文が直ちに真実の一念三千の義を表わしているのです。
爾前には迹門、迹門には本門と、より深い義によって経文を判じ、その経の意義を正しく理解するために、依義判文するのです。
ただし、本門には、在世脱益の本門と末法下種の本門の二意があることを知らなければなりません。
末法の本門とは、大聖人が『開目抄』に、
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(御書 526頁)
と、一代諸経を浅きより深きに至る次第によって御指南された、仏法の究極の法体である寿量文底下種の本門をいうのです。
この文底の義、すなわち久遠元初・寿量文底下種の法体である三大秘法の深義を知って、そこより立ち還って一代仏教を判ずるならば、
『撰時抄』に、
「仏の滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法、経文の面に現前なり」(御書 851頁)
とあるように、仏の最大深秘の大法である三大秘法は、経文の面にもはっきりと説かれていることがわかるのです。
なぜなら、依義判文は、三大秘法と一代仏教との開合の原理によっているからです。
開合の「開」とは、仏法の根本、久遠文底下種の体である一大秘法の本門の本尊は、戒壇・題目の三大秘法と開かれ、さらに本尊に人・法、戒壇に義・事、題目に信・行の六義と展開し、散じては八万法蔵となる相をいいます。また「合」とは、八万法蔵の万行を合すれば、六義となり、さらに合すれば三大秘法となり、そして全てが一大秘法に納まる相をいいます。
法華経を含むそのほかの諸経は、一大秘法の本門の本尊を根源として顕われた教法です。ゆえに、釈尊一代の諸経は悉く本門の本尊の依義判文であり、ただ三大秘法の本門の本尊こそ、真実の一念三千の当体なのです。