本因妙(ほんにんみょう)
本因妙の本因とは、本仏の根本の因行をいいます。そして、その果報である仏果を本果といいます。この本因本果は、共に微妙不可思議な仏の境界のゆえに本因妙・本果妙というのです。
天台大師は、『法華文句』の中で、『寿量品』の、
「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未(いまなおいま)だ尽きず。復(また)上の数に倍せり」(開結 五〇〇)
との文に、釈尊の本因妙が説かれていると釈しています。すなわち、釈尊が菩薩道を行じて初住位(しょじゅうい)に登ったとき、妙法の一分を証得し、常住の慧命(えみょう)を得たと釈して、釈尊の仏果の常住とともに円因を修して得た因の寿命も常住であることを明かしているのです。
また天台は、『法華玄義』の中でも本因妙の実義を説いています。そこでは、釈尊が五百塵点劫(じんでんごう)に初めて仏となった以前の菩薩道には、久遠本仏の智慧と、一切の行の功徳を具足する根本の修行、そして中道の理を証得した初住位が具(そな)わると述べられています。
こうして寿量品は、釈尊の仏因とともに仏果の久遠常住を説き、さらに裟婆世界における常住の化導(けどう)が説かれているのです。
しかし、寿量品には、釈尊が本因初住位に登るための法と修行が説かれていません。また天台も、本因妙の真義を知ってはいましたが、時なく、機なく、付嘱(ふぞく)がないゆえに、本因初住の一段奥に存する根本の法と修行を顕わに述べることはできませんでした。ここに、文上脱益(もんじょうだつやく)の本因妙を説く釈尊仏法の限界があります。
日蓮大聖人は、文底(もんてい)本因下種の法体を所有される権能の上から、『本因妙抄』に、
「文底とは久遠実成の名字(みょうじ)の妙法を余行にわたさず、直達正観・事行(じぎょう)の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(平成新編御書 一六八四)
と御指南され、また総本山第二十六世日寛(にちかん)上人は、その御相伝の深義を『三重秘伝抄』に、
「本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。應(まさ)に知るべし、後々の位に登ることは前々の行(ぎょう)に由ることを」(六巻抄 一八六)
と説かれているように、我本行菩薩道の文底には久遠名字の妙法、事の一念三千が秘沈されているのです。この久遠本因名字の法体である下種の南無妙法蓮華経を本尊として修行し、無作三身の仏果を成じられた本仏が、釈尊として垂迹化他(すいじゃくけた)に出られるために、歴劫(りゃっこう)修行の相を説かれ、また初住本因を示されたのです。
南無妙法蓮華経の本尊とは『総勘文抄(そうかんもんしょう)』に、
「釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」(平成新編御書 一四一九)
とあるように、名字凡夫が、我が身は地水火風空の妙境なりと知るを本因とし、即座に悟りを開くを本果とする因果一念の法であり、名字凡夫の当体に即する法です。南無妙法蓮華経は、因に果が直ちに具わる名字本仏の一念であり、この久遠元初の一念の因果に釈尊仏法を含む一切の仏道の功徳が具わるのです。
このように、大聖人は、本因のところに直ちに本果が具わるという久遠元初因果一念の証得、文底下種の本因妙を説かれ、さらに、本因妙の凡夫即極の仏こそ自身であることを説かれています。したがって、大聖人の文底下種の本因妙が本仏の本地自行の法体であるのに対し、釈尊の説かれた文上の本因妙は本果脱益(ほんがだつやく)の本因妙となるのです。