謗法厳誡(ほうぼうげんかい)
「謗法厳誡」とは、謗法を厳に誡(いまし)めるということで、本宗においては日興上人の身延離山に見られるように、古来より堅持(けんじ)されてきた信条です。謗法については『顕謗法抄(けんほうぼうしょう)』に、
「謗法とは法に背(そむ)くという事なり」(御書 二八六?)
また『真言見聞(しんごんけんもん)』に、
「謗法とは謗仏謗僧(ぼうぶつぼうそう)なり」(同 六〇八?)
と仰せられるように、単に正法を謗(そし)ることだけでなく、正法を信じないこと、正法に背くこと、僧侶を毀(そし)ることなど、大聖人の正法正義に背く信仰や思想、言動、行動のすべてが謗法になるのです。
謗法の罪は非常に重く『真言見聞』に、
「謗法は無量の五逆に過ぎたり」(同 六〇九?)
とあるように、五逆罪(父を殺す・母を殺す・阿羅漢を殺す・仏の身より血を出す・和合僧団を破る)にも勝る重罪であり、衆生の成仏の種子(しゅし)を断ずるだけでなく、地獄の因となるのです。『阿仏房尼御前御返事』には、
「少しも謗法不信のとが候はゞ、無間大城疑ひなかるべし(乃至)なわて堅固なれども、蟻の穴あれば必ず終に湛(たた)へたる水のたまらざるが如し」(同 九〇六?)
と御教示されています。
この御教示は、たとえ正法たる大聖人の仏法を信仰していても、自らが謗法を犯したならば、必ず地獄に堕ちてしまうということです。何故なら、田んぼの畷(あぜ)に蟻が通るぐらいの穴が、たった一つ開いていても、そこから水が流れ出てしまって田んぼに水は溜(た)まりません。それと同様に、私たちがいかに正法の信仰をしていても、謗法という穴が開いていれば、せっかく積んだ功徳もすべて流れ出てしまうのですから、私たちは謗法を厳に誡めなければなりません。
具体的には、日蓮正宗の信心をしながら、他の宗教の本尊を祭ったり、お守りや神札を受けたり、あるいは他の宗教への寄付や布施をすることは、謗法与同罪を犯すことになります。その他、仏道修行を怠(なま)けたり、正信の僧侶や同志を恨(うら)んだり、悪口を言ったりすることも謗法になります。
さらに『曽谷(そや)殿御返事』には、
『謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(同 一〇四〇?)
と御教示されています。これは自らが謗法を犯さなくとも、謗法を呵責(かしゃく)しなければ、謗法に与同(よどう)する罪に当たるということです。
したがって、一切の悪業の根本である謗法を自ら犯さないことはもちろん、進んで退治することが謗法厳誡の本義なのです。
私たちは宗旨建立七百五十年の三十万総登山を目指し、信心強盛にして自らの謗法を誠めるとともに、創価学会をはじめとする他の謗法を厳然と破折する折伏行に邁進することが肝要です。