顕益(けんやく)と冥益(みょうやく)
仏法の利益に顕益と冥益があります。
顕益とは、顕然(けんねん)たる利益のことで、はっきりと目にみえて顕(あら)われる利益をいいます。これに対して冥益とは、冥(みょう)利(り)ともいい、冥々(めいめい)のとしてはっきりと表に顕われなくとも、知らず知らずのうちに受ける利益をいいます。
顕益は『教行証御書』に
「正像に益(やく)を得し人々は顕益(けんやく)なるべし、在世結縁(けちえん)の熟せる故に。今末法には初めて下種す、冥益(みょうやく)なるべし」
(御書 1104頁)
とあるように、釈尊滅後の正法・像法の時代の衆生が修行を積み重ねたことによって、過去に受けていた下種を成仏として顕わすことをいいます。
また、法華経法師功徳品に、受持(じゅじ)・読(どく)・誦(じゅ)・解説(げせつ)・書写(しょしゃ)の五種の妙行を修すれば、六根(ろっこん)清(しょう)浄(じょう)の功徳を得ることができると説かれています。これは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根に優れた宗教的能力が具(そな)わることで、このように、はっきりと目に見えて顕われる現証も顕益といいます。
これに対し冥益とは、過去に下種のない末法の衆生が、本因下種の法体である南無妙法蓮華経を受持信行することによって得る成仏の利益をいいます。
たとえば、赤子が母の乳を飲んでも、直ちに成長の度合いがわかるものではありません。ところが次第次第に成長していくように、南無妙法蓮華経の下種の利益は、目にはっきりと顕われなくとも、必ず成仏の利益として顕われるのです。
『一念三千法門』に
「法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし」(同 110頁)
とあるように、末法の衆生は、御本尊を受持し、自行化他の修行を実践することによって、即身成仏の境界を顕わすのです。
しかし、末法の衆生に、まったく顕益がないということではありません。
大聖人は『持妙法華問答抄』に
「されば『七難即滅七福即生』と祈らんにも此の御経第一なり。現世安穏と見えたればなり」(同 299頁)
『法蓮抄』に
「近き現証を引いて遠き信を取るべし」(同 814頁)
と説かれているように、妙法の下種益によって顕われる顕益は、正しい仏法の証明と確信を深めることになるのですから、仏法上最も大切なことなのです。
ともあれ、末法における顕益は、日々の弛(たゆ)みない仏道修行による冥益があって、はじめて、仏の慈悲や諸天の加護となって顕われるものなのです。
私たちは、人生のあらゆる苦楽のなかで、大聖人の下種仏法を固く受持するところ、凡眼凡智で測(はか)り知ることのできない大利益があることを確信すべきです。