供(く) 養(よう)
「供養」とは「供(ぐ)給(きゅう)奉(ほう)養(よう)」の意味で、報恩のために仏法僧の三宝に対して財物などを供(そな)える行為をいいます。
供施(ぐせ)・供給、略して「供(く)」などともいいます。
供養については諸の経論に種々説かれています。今、主なものを挙げてみますと、
?「二種供養」。『十(じゅう(住(じゅう(毘婆(びば)沙論(しゃろん)』等に説かれている供養で、ここでは香華(こうげ)・飲食(おんじき(などの財物を供養する利供養と、教説のごとく修行して衆生を利益する法供養が説かれています。
?「三種供養」。『十地経(じゅうじきょう)』等に説かれている供養で、香華・飲食を捧げる利供養、讃歎(さんだん(恭(く)敬(ぎょう)する恭敬供養、そして仏法を行ずる行供養が説かれています。
?「四事供養」。『増一(ぞういち)阿(あ)含(ごん)経(ぎょう(』に説かれている供養で、飲食・衣服(えぶく)・臥具(がぐ)・湯薬(とうやく(の四つをいいます。
?「十種供養」。『法華経』の『法師品』に説かれている供養で、華・香・瓔珞(ようらく)・抹香・塗香(ずこう)・焼香・繪蓋(ぞうがい)・幢幡(どうばん)・衣服・伎楽(ぎがく)等の十種の供養をいいます。
この他にも種々説かれていますが、天台大師は『法華文句』で、礼拝の身業供養、称讃の口業供養、相好を想念する意業供養の三業供養を説いています。
さらに『摩訶止観』では、「布施行に事と理の布施が具(そな)わる(中略)事とは慳貪(けんどん)の物を破してよく財物を布施する財施、理とは慳貪(けんどん)の心を破してよく法を布施する法施である」というように、「事・理の供養」を説いています。
日蓮大聖人は『白米一俵御書』で、天台の「事理の供養」を受けて、独自の御教示をされています。
同抄に、仏法では第一の財、すなわち自分の命を仏に供養してこそ成仏ができると説かれてきた。しかし、凡夫には、このような命を捧げる供養は難しいので、凡夫には凡夫としての供養のあり方がある。すなわち、凡夫は、「こころざし」という、真心の信心の供養によって成仏ができる、と明かされています。
同抄に、
「たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ご(御)れう(料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢ(臂)をやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをと(劣)らぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供(じく)やう(養)、凡夫のためには理(り)くやう(供養)」(御書 1544頁)
と仰せのように、末法の凡夫は、過去に仏の恩を報ずるために自らの臂を焼いた薬王菩薩や、法を求めて自らの命を鬼に捧げた雪山童子の「事供養」には到底堪(た)えられません。しかし、これら聖人と同様、命それ自体ではなくとも、それを失えば生活の維持が困難である衣や食を仏に供養する「理供養」の「こころざし」によって、成仏の功徳を積むことができるのです。
私たちは、御本尊を信じ奉り、真心の御供養を心掛け、さらに折伏に精進していくことこそ真の供養と心得ましょう。