境智冥合
境智冥合とは、境と智が融合(ゆうごう)した一体の境界(きょうがい)をいいます。境とは所観(しょかん)の対象(たいしょう)であり、主観(しゅかん)に対する客観(きゃくかん)世界をいい、智とは境を観察する能観(のうかん)の智慧、すなわち認識する心の作用(さよう)としての主観的世界をいいます。
『法華経』の『方便品』に、
「諸仏の智慧は甚深(じんじん)無量なり。其(そ)の智慧の門は難解難入(なんげなんにゅう)なり。一切の声聞(しょうもん)、辟支仏(ひゃくしぶつ)の知ること能(あた)わざる所なり」(開結一五三頁)
とあるように、仏の智慧は宇宙法界(ほうかい)の一切の事物(じぶつ)現象の真理(境)を照らし、一切に通達(つうたつ)しているゆえに甚深無量であり、その教えは難解難入です。
その仏の深い境智を天台(てんだい)大師は、『法華(ほっけ)文句(もんぐ)』に、
「境と智と和合すれば、則(すなわ)ち因果有り、境を照らして未(いま)だ窮(きわま)らざるを因と名(なず)く、源(みなもと)を尽(つ)くすを果と為(な)す」
とあるように、境智冥合とは仏の境智の因果であり、この刹那(せつな)の因果に九界(くかい)即仏界・即身(そくしん)成仏の境界があることを説きました。
末法(まっぽう)御出現の日蓮大聖人は『曾谷(そや)殿御返事』に、
「法華以前(いぜん)の経は、境智各別(かくべつ)にして、而(しか)も権教(ごんきょう)方便なるが故に成仏せず。今(いま)法華経にして境智一如(いちにょ)なる間、開示悟入(かいじごにゅう)が四仏知見(しぶっちけん)をさとりて成仏するなり」(平成新編御書一〇三八頁)
と仰せのように、爾前(にぜん)諸経は能観の智である三観(さんがん)が円満に説かれず、また所観の境である三諦(さんたい)も融合していないために境智は各別であり、しかも仏の権智(ごんち)をもって説かれた方便の教えのゆえに成仏の教法とはなりません。これに対して『法華経』は三観三諦(さんがんさんたい)の境智がそれぞれ融合しているので境智一如であり、仏の真実の智慧をもって説かれた完全なる教えのゆえに成仏の教法となる、と御指南されています。
このように、大聖人は『法華経』こそ十界互具(じっかいごぐ)・境智冥合の教法であることを説かれましたが、それは未(いま)だ天台与同(よどう)の義であり、下種即身(そくしん)成仏の本義を顕わされてはいないのです。また先の天台の釈文(しゃくもん)も、境智和合の相(そう)を説いてはいますが、本門本地の実体を説き尽くしてはいないのです。
『総勘文抄(そうかんもんしょう)』に、
「釈迦如来(にょらい)五百塵点劫(じんでんごう)の当初(そのかみ)、凡夫(ぼんぶ)にて御坐(おわ)せし時、我が身(み)は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座(そくざ)に悟(さと)りを開(ひら)きたまひき」(平成新編御書一四一九頁)
とあり、それを日寛上人が『観心(かんじんの)本尊抄文段(もんだん)』に、我が身地水火風空は境(きょう)であり、知(しろ)ろしめされた凡夫即極(そくごく)の本仏の悟りを智と御指南されているように、大聖人の寿量文底(もんてい)下種仏法において解明(かいめい)された本地難思(なんし)境地冥合の刹那(せつな)始終(しじゅう)の一念には、仏法の本源の当体(とうたい)・凡夫即極(そくごく)即身成仏の功徳が存するのです。その本地難思境地冥合の当体とは、末法御出現の久遠元初(がんじょ)の下種の御本仏(ごほんぶつ)日蓮大聖人に他(ほか)なりません。
大聖人は末法の一切衆生救済のために己心(こしん)に具(そな)えられた文底下種、事の一念三千を本門戒壇の大御本尊と御図顕(ごずけん)されました。
ゆえに私たちは、大御本尊を唯一(ゆいいつ)絶対の正境(しょうきょう)と確信して至信(ししん)に唱題に励むとき、大御本尊の境と自身の信ずる一念が智となって境智冥合し、そこに初めて即身成仏の大利益(だいりやく)を得(え)ることができるのです。