聞法下種・発心下種(もんぽうげしゅ・ほっしんげしゅ)
種熟脱(しゅじゅくだつ)の三益(さんやく)のうち、最も大切なのは下種益(げしゅやく)です。この下種益には、聞法下種と発心下種の二義があります。
妙楽(みょうらく)大師の『法華玄義(げんぎ)釈籤(しゃくせん)』に、「聞法を種と為(な)し、発心を芽(め)と為す」とあるように、聞法下種とは、仏が初めて衆生の心田(しんでん)に仏種を植(う)えつけることで、根本の下種をいいます。また、発心下種とは、植えられた仏種が、時至(いた)り縁に応(おう)じて発芽(はつが)させることで、修行の始めに当たります。したがって、同じ下種とはいえ、聞法と発心とでは、その衆生の機根(きこん)に、仏種を有(ゆう)するか否(いな)か、本未有善(ほんみうぜん)と本已(ほんい)有善、という根本的な相違があるのです。端的(たんてき)にいうと、本未有善の衆生に対する聞法下種を真の下種とするのに対し、本已有善の衆生に対する発心下種は、その性質上、熟脱(じゅくだつ)に摂(しょう)せられるのです。
日寛上人は『観心(かんじんの)本尊抄文段(もんだん)』に、聞法と発心の下種に三重の秘伝があることを説かれています。
第一には権実相対(ごんじつそうたい)で、同(どう)文段に、
「最初聞法は必ず是(こ)れ円教、若(も)し発心を論ぜば大小定(さだ)まらず」(日寛上人文段集 五二六)
とあるように、釈尊の説いた権経(ごんきょう)と実経(じっきょう)を聞法・発心に立て分けて判釈(はんじゃく)します。最初の聞法は必ず法華円教であり、他(た)の教法は種となりません。この法華円教が種となり、後に縁に従って発心せしめる教法は大乗の場合も小乗の場合もあって定まらないということです。
第二には本迹(ほんじゃく)相対で、同文段に、
「最初聞法、必ずこれ本門なり。若し発心を論ぜば権迹不定(ふじょう)なり」(同)
とあるように、本迹の筋目(すじめ)の上から立て分けた判釈です。最初の聞法は必ず本門の教法であり、爾前(にぜん)迹門は種となりません。本門に説かれている久遠五百塵点劫(じんでんごう)の本果(ほんが)釈尊の教法が種となり、この種を成熟(じょうじゅく)せしめる発心の教法は、機縁(きえん)に従って爾前経の場合も法華迹門(しゃくもん)の場合もあり、一概(いちがい)でないということです。
第三には種脱(しゅだつ)相対で、同文段に、
「最初聞法は必ずこれ文底(もんてい)なり。若(も)し発心を論ぜば迹本(しゃっぽん)不定なり」(同)
とあるように、種脱の筋目(すじめ)の上から立て分けた判釈で、大聖人の究極(きゅうきょく)の決判(けっぱん)です。文底とは久遠元初(がんじょ)自受用身(じじゅゆうしん)の証得(しょうとく)された本因(ほんにん)下種の妙法をいい、迹本とは久遠元初本仏の垂迹(すいじゃく)である熟脱(じゅくだつ)の釈尊が説いた法華経の本迹(ほんじゃく)二門です。在世(ざいせ)の衆生は、久遠元初に下種を受けながら退転(たいてん)して九界(くかい)に流転(るてん)しましたが、迹門や本門の教法を縁として久遠名字(みょうじ)の妙法の下種を覚知(かくち)し、真の即身(そくしん)成仏を遂(と)げたのです。つまり、第一の聞法(もんぽう)下種の法華円教(えんきょう)は、第二の本果の本門の教法に摂(しょう)せられ、第二の本果の本門の教法は、第二の久遠元初の本因(ほんにん)の妙法に摂せられて、最終的には寿量文底(もんてい)本因下種の大法以外は根本の最初下種の教法とならないのです。
ゆえに、三種の相対によって仏法の根本である久遠元初の本因下種の妙法が顕(あら)われれば、釈尊の仏法に属(ぞく)する第一第二のすべての経々は、悉(ことごと)く発心下種であり即身成仏の種(しゅ)とはなりません。ただ、久遠元初の本因下種の妙法だけが一切衆生の成仏の仏種(ぶっしゅ)となるのです。
翻(ひるがえ)って、末法の衆生は一切が未(いま)だ根本の仏乗種(ぶつじょうしゅ)を植(う)えられていない本未有善の衆生です。ゆえに、末法は、熟脱の教法である釈尊の仏法ではなく、まさに大聖人の弘通(ぐずう)された文底本因下種の教法をもって、一切衆生に聞法下種の折伏を進めていくことが肝要(かんよう)なのです。