文底秘沈(もんていひちん)
「文底秘沈」とは、真の事(じ)の一念三千(末法の一切衆生が即身成仏の本懐を遂げるべき根本の大法)が、法華経本門寿量品の文底に秘し沈められていることを表わす語であり、『開目抄』の、
「一念三千の法門は但(ただ)法華経の本門寿量品の文の底に(秘し)しづめたり。」(平成新編御書 五二六)
との文に由来します。
日寛(にちかん)上人は、右文に三重の秘伝があることを教示されました。すなわち、文中「但」の字は「法華経」「本門寿量品」「文底秘沈」の三句に冠し、一念三千の法門が権実相対(ごんじつそうたい)・本迹(ほんじゃく)相対・種脱(しゅだつ)相対と従浅至深(じゅうせんしじん)して説き顕わされていくということです。
具体的には、第一に「但法華経」の句は権実相対に当たります。これは爾前権経(にぜんごんきょう)と実経たる法華経を比較相対し、一代諸経の中ではただ法華経のみに一念三千の法門が説かれていることを明かします。すなわち、爾前経では二乗が永不成仏(ようふじょうぶつ)とされたため、十界が互具・互融(ごゆう)せず、一念三千の義が成立しません。しかし、法華経では迹門の十如実相・二乗作仏と本門の久遠実成によって、十界互具・百界千如・一念三千が明かされるのです。このため、一代諸経の中では、ただ法華経のみに一念三千が説かれていることを知るのです。
第二に「但本門寿量品」の句は本迹相対です。ここでは法華経中の迹門と本門を比較相対し、ただ本門の枢要(すうよう)たる寿量品のみに一念三千が説かれることを明かします。迹門では十如実相に約して理の一念三千が説かれ、二乗に成仏の記別が与えられました。しかし、その本となる釈尊の久遠本地が説かれないので、二乗の成仏も本無今有(ほんむこんぬ)・有名無実(うみょうむじつ)とされるのです。これに対して本門寿量品では、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙合論によって、釈尊の久遠本地とその身に約した十界の常住が明かされ、事の一念三千が顕わされました。そして、これを聴聞した所化の衆生も、釈尊との常住の因縁を覚り、久遠の仏種を覚知して成仏の本懐を遂げたのです。このため、法華経の中でも、ただ本門寿量品にこそ一念三千が説かれていることを知るのです。
第三に「但文底秘沈」の句は種脱相対です。一口(ひとくち)に本門寿量品といっても、釈尊が説いた文上の寿量品と、末法の日蓮大聖人が弘通される文底の寿量品があります。この二種の寿量品を比較相対し、文底の寿量品にこそ真の事の一念三千が説かれることを判定するのです。すなわち、文上の寿量品に説かれる一念三千は、釈尊在世の衆生を得脱させる脱益の法ですが、仏種を持たない末法の衆生に対する下種とはなりません。これに対し、文底の寿量品に説かれる一念三千は、末法の一切衆生が即身成仏すべき本因下種の大法です。また在世の脱益も、その根本は久遠元初の本因下種にありますから、真の事の一念三千はただ文底に秘沈されていることを知るのです。
御本仏大聖人は、この文底秘沈の大法たる真の事の一念三千を三大秘法として建立されました。私たちはその当体である三大秘法総在の御本尊を堅く受持してこそ、即身成仏の本懐を遂げられることを知るべきです