能開所開(のうかいしょかい)
「能開」とは「能く開会(かいえ)する」ということで、諸法(しょほう)を開会する法華経の妙義をいい、「所開」とは「開会される」ということ、開会される諸法の立場をいいます。
開会とは、法華経『方便品』に、
一仏乗に於いて分別(ふんべつ)して三と説きたまう(開結 一七〇)
と説かれているように、爾前(にぜん)の三乗法を開き法華一仏乗に会入(えにゅう)する、という天台が立てた法華経の法門です。
この開会には相待妙(そうたいみょう)と絶待(ぜったい)妙があります。相待開会は、爾前と法華を比較して法華の真実の妙義を顕わすことです。絶待開会は、爾前経は全て法華経へ導くための方便の教えであり、本来法華経から顕れた教えです。ゆえに法華経が説かれたならば、爾前権教は法華経の本体に帰入(きにゅう)し、体内(たいない)の権(ごん)として法華経の正義のために活現されます。「能開」の法華経に「所開」の爾前経が会入して、はじめて爾前経の方便の意義と価値が徹底して顕れるのです。この時、爾前権経は法華経であり、法華経を離れて別個に爾前権経が存することはありません。ただし、体内の権といっても、体内の実(じつ)に及ばないのですから、「能開」の法華経と「所開」の爾前権経には厳然と勝劣浅深の区別があることを忘れてはいけません。
このような意義について、日蓮大聖人は、『一代聖教大意』で、
「法華経に二事あり。一には所開、二には能開なり(中略)此の法華経は知らずして習い談ずる物は但爾前経の利益なり」(御書九八)
と、権実(ごんじつ)相対の上から御指南されています。しかし、これは、法華経の正義を説かれた一往の意、天台の助言であり、大聖人の教示には再往、再再往の意が存します。
日寛上人が、『観心本尊抄文段(もんだん)』に、
「爾前は所開・迹門は能開、迹門は所開・本門は能開、脱益は所開・下種は能開なり」
と御指南されているように、「能開・所開」の立て分けは、権実のみならず、本迹(ほんじゃく)・種脱(しゅだつ)と三重秘伝(さんじゅうひでん)によって拝さなければなりません。
すなわち、本迹相対は、法華経の本門寿量品の開顕により、爾前迹門の諸仏諸経は悉(ことごと)く寿量本仏に統一にされました。この場合、本門寿量の本仏は「能開」であり、爾前迹門は「所開」です。ゆえに本門から立ち還って爾前迹門を見れば、それらはすべて本門からの垂迹(すいじゃく)の化導であったことが明らかになります。
そして、種脱相対では、日蓮大聖人が『百六箇抄』に、
「下種の二妙実行の本迹。日蓮は脱の二妙を迹と為し、種の二妙を本と定む。然して相待は迹、絶待は本なり」(一七〇〇)
と御指南されているように、釈尊所説の脱益仏法の一切は寿量文底下種(もんていげしゅ)の南無妙法蓮華経を根源の種として説き顕されたのですから、大聖人の文底下種人法一箇(にんぽういっか)の南無妙法蓮華経は「本」にして「能開」であり、釈尊の脱益仏法は「迹」であり「所開」となるのです。しかし、その下種の南無妙法蓮華経においても、相対法門を説く相待妙は迹であり、人法一箇、独一本門の南無妙法蓮華経こそが「絶待妙」であり、「能開」の当体なのです。