六道輪廻(ろくどうりんね)
六道輪廻とは、迷いの衆生が六道の苦しみを、あたかも車の車輪が回るように繰り返し続けていくことをいいます。
日蓮大聖人は、『聖愚問答抄(しょうぐもんどうしょう)』に、
「我等無始(むし)より已来(このかた)、無明(むみょう)の酒に酔ひて六道四生(ししょう)に輪回して、或時は焦熱(しょうねつ)・大焦熱の炎にむせび、或時は紅蓮(ぐれん)・大紅蓮の氷にとぢられ、或時は餓鬼・飢渇(きかつ)の悲しみに値(あ)ひて、五百生の間飲食(おんじき)の名をも聞かず。或時は畜生残害の苦しみをうけて、小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる。是を残害の苦と云ふ。或時は修羅闘諍(しゅらとうじょう)の苦をうけ、或時は人間に生まれて八苦をうく。生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)・五盛陰苦(ごおんじょうく)等なり。或時は天上に生まれて五衰(ごすい)をうく」(平成新編御書 三八二)
と仰せられているように、六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の衆生をいい、それらは自らの業報によって住する国土が異なります。しかもまた『観心本尊抄』に、
「瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろ)かは畜生、諂曲(てんごく)なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり」(平成新編御書 六四七)
とあるように、六道は自己の命に具(そな)わる迷いと苦しみの境界をも意味します。
このように、迷いの衆生は自身の過去世の様々な悪業により、欲望に支配された苦しみの六道の生死を限りなく流転しなければならないのです。
釈尊は小乗教において、衆生が六道を輪廻するのは煩悩(ぼんのう)のためである、煩悩を厭(いと)い捨てたところに六道を離れた解脱(げだつ)の世界があると説きました。煩悩こそ一切の迷いと苦しみの原因であるとしたからです。
しかし、法華経迹門(しゃくもん)では、十界互具(じっかいごぐ)・百界千如の方を説き明かして地獄・餓鬼・畜生等の六道も法性(ほっしょう)真如の全体であって断ずべきものではなく、生死の世界はそのまま解脱の世界であると開会(かいえ)したのです。ところがその迹門も、日蓮大聖人が『十法界事』に、
「迹門には但是(ただこれ)始覚(しがく)の十界互具を説きて未(いま)だ必ずしも本覚本有(ほんがくほんぬ)の十界互具を明さず。故に所化(しょけ)の大衆・能化の円仏(えんぶつ)皆是悉(ことごと)く始覚なり。若(も)し爾(しか)らば本無今有の失(とが)何ぞ免(まぬが)るゝことを得んや」(平成新編御書 一七八)
と説かれているように、始成正覚の仏が説いた教法であり、本無今有の失を免れることはできません。本門によって始覚の十界互具を開して本覚の十界互具・百界千如・一念三千が顕れて、一切の衆生は自身の命が仏と同じ永遠の生命であることを覚知し、真の成仏を遂げることができたのです。
日蓮大聖人が『当体義抄(とうたいぎしょう)』に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(平成新編御書 六九四)
と仰せのように、末法の衆生は、寿量文底(もんてい)下種(げしゅ)の御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えることにより煩悩を菩提と開き、六道に輪廻するこなく、九界即仏界して直ちに妙法の功徳を実証できるのです。