六 即(ろくそく)
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教を行ずる菩薩の修行過程(かてい)を六つの位(くらい)に分けたもので、理即(りそく)・名字(みょうじ)即・観行(かんぎょう)即・相似(そうじ)即・分真(ぶんしん)即・究竟(くきょう)即をいいます。
六即の六とは、理即より究竟即に至るまでの階位(かいい)に浅深(せんじん)があるゆえに差別を意味し、即とは、六位それぞれに仏性が一貫(いっかん)して内在(ないざい)するゆえに、凡夫と仏が理(り)において不二平等(ふにびょうどう)であることを意味します。
『摩訶止観(まかしかん)』に、
「若(も)し信無くば、高く聖境(しょうきょう)を推(お)して己(おのれ)の智分(ちぶん)に非(あら)ずとし、若し智なくば、増上慢(ぞうじょうまん)を起して己れ仏に均(ひと)しと謂(い)う。初後(しょご)倶(とも)に非(ひ)なり。此(こ)の事の為の故に須(すべか)らく六即を知るべし。(乃至)此の六即は凡(ぼん)に始まり聖(しょう)に終わる。凡に始まるが故に疑怯(ぎきょう)を除き、聖に終わるが故に慢大(まんだい)を除(のぞ)く」
とあるように、天台は、信心のない者が仏の悟りを前にして自身を卑下(ひげ)したり、無智の者が慢心を抱(いだ)くことを防(ふせ)ぐため、凡夫より聖人(しょうにん)(仏)に至るまでの弛(たゆ)まない信心修行の階梯(かいてい)として、六即の行位(ぎょうい)を立てたのです。
?理即とは、理の上で一切衆生は悉(ことごと)く仏性を具(ぐ)しているが、未(いま)だ正法(しょうぼう)を聞かず、全く修行の徳がない位をいいます。?名字即とは、初めて仏法の名字を見聞(けんもん)し、一切の法は皆(みな)仏法であると知る位をいいます。?観行即とは、名字を知り、その教えのままに修行して、己心(こしん)に仏性を観ずる位をいいます。?相似(そうじ)即とは、見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)の二惑(にわく)を断じ、悟りに相似する六根清浄(ろっこんしょうじょう)の位をいいます。?分真(ぶんしん)即とは、四(し)十二品ある無明惑(むみょうわく)のうち、最後の元品(がんぽん)の無明だけを残してすべての迷いを滅(めっ)し、仏性を分々にあらわしていく位をいいます。?究竟(くきょう)即とは、元品の無明を断尽(だんじん)した円教(えんきょう)究竟の極位(ごくい)をいいます。
このように、天台は、衆生が菩提心(ぼだいしん)を起し、六つの段階を一々に修めて行くところに本来の仏性が顕れてくることを教え、さらにその実践体得(たいとく)の修行方法を細(こま)かく説いて衆生を導きました。
しかし、天台の修行は、過去に妙法の仏種を受けた機根(きこん)の高い衆生が、自己の智慧によって悟りを得るというものであり、末法の荒凡夫(あらぼんぷ)に耐(た)えられるものではありません。
末法の衆生は、妙楽(みょうらく)が、「教弥(いよい)よ実なれば位(くらい)弥よ下(ひく)し」
といっているように、過去に妙法の仏種(ぶっしゅ)を植(う)えられていない下劣(げれつ)下根の衆生ですから、最(もっと)も勝れた仏法によって修行しなければ、成仏を遂(と)げることはできないのです。
日蓮大聖人は『総勘文抄(そうかんもんしょう)』に、
「一切の法は皆是(これ)仏法なりと通達(つうだつ)し解了(げりょう)する、是を名字即と為(な)づく。名字即の位より即身成仏する故に円頓(えんとん)の教(きょう)には次位(じい)の次第無し」(平成新編御書 1417)
と仰せられ、末法の衆生は煩悩(ぼんのう)を断じながら仏になるのではなく、妙法の御本尊を受持信行する名字即の凡夫の当体(とうたい)に、即身成仏があることを示されています。
さらに『御義口伝(おんぎくでん)』には、文底(もんてい)下種仏法における六即の意義が明かされていますが、その所詮(しょせん)は、久遠本因(くおんほんにん)下種の御本尊を信じ、ひたすら南無妙法蓮華経を唱えることを根本として、名字即究竟の即身成仏の極果(ごっか)に至るところにあるのです。