器(うつわ)の四(し)失(しつ)
「器の四失」とは、器が器として用をなさない「覆(ふく)・漏(ろ)・汀(う)・雑(ぞう)」の四つの失(とが)(欠陥)をいいます。
これは、天台大師の『法華文句(ほっけもんぐ)』に、
「過去(かこ)の根浅(こんあさ)く、覆(ふく)漏(ろ)汚(お)雑(ぞう)し、三(さん)慧(え)生(しょう)ぜず」
とあるのに対し、妙楽大師が『法華文句記』に、
「聞慧(もんえ)なきがゆえに、器(うつわ)の現(げん)に覆(ふく)するがごとく、思慧(しえ)を闕(か)くるがゆえに器の漏(も)るがごとく、修(しゅう)慧(え)なきがゆえに器の汚雑(おぞう)せるがごとし」
と釈されたところに由来します。
大聖人は『秋元御書』において、
「器は我等が身心を表はす。我等が心は器の如し」
(御書 1447頁)
と信心の在り方を器になぞらえ、
「器に四の失(とが)あり」(前 同)
と、覆・漏・汀・雑が衆生の成仏を妨(さまた)げる要因であると御教示されています。
「覆」とは、覆(くつがえ)る、覆(おお)う、蓋(ふた)が閉(し)まっている等の意で、正法を信じようとせずに我が身の仏性を開かないことをいいます。この「覆」を大聖人は、
「仏の智慧の法水(ほっすい)を我等が心に入れぬれば、或は打ち返し、或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆(おお)ひ、或は口に唱へじと吐き出だしぬ」(前 同)
と示され、仏の智慧の法水である文底下種の南無妙法蓮華経を求めない姿に譬えられています。
「漏」とは、器から水が漏れることの意であり、いつまでも水が溜(た)まらないことは、正法を聞いても持続性のない姿勢に譬えられています。大聖人は、
「或は少し信ずる様なれども又悪縁に値ひて信心うすくなり、或は打ち捨て、或は信ずる日はあれども捨つる月もあり」(前 同)
と仰せられています。
「汀」とは、汚(けが)れ、汚(よご)れるの意で、生命の汚れによって正法を聞いても汚してしまうことをいいます。大聖人は、
「水浄けれども糞(ふん)の入りたる器の水をば用ふる事なし」
(前 同)
と示され、もともと汚れている器に清水を入れても、それを飲むことができなくなるように、法水は清浄であっても、我見・慢心等で生命が汚れているならば、信心も歪(ゆが)み、利益(りやく)も得ることができないのです。
「雑」とは、混(ま)じるの意で、正法に邪義を混入させることをいいます。大聖人は、
「或は法華経を行ずる人の、一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申すは、飯に糞を雑(まじ)へ沙石(いさご)を入れたるが如し」(前 同)
と、妙法を信受しながら余事を雑えることの愚かさを説かれています。
この覆・漏・汀・雑の四つの失のない完璧な器を完器(かんき)といいますが、
「信心のこゝろ全(まった)ければ平(びょう)等(どう)大(だい)慧(え)の智水(ちすい)乾く事なし」
(同 1448頁)
と仰せのように、私たちの信心が堅固(けんご)であれば仏の平等大慧の智慧の水も満々となり、即身成仏の本懐を遂げられることを知るべきです。