一念随喜(いちねんずいき)

教学用語

一念随喜

一(いち) 念(ねん) 随(ずい) 喜(き)

 「一念随喜」とは、法華経を修行する初信(しょしん)の行者の位をいいます。一念は一瞬の短い時間を表し、随喜とは随順(ずいじゅん)慶喜(けいき)の意で、信順して歓喜することです。

 一念随喜は、まず法華経迹(しゃく)門(もん)の『法師品(ほっしほん)第十』に説かれ、次に法華経本門(ほんもん)の『分別(ふんべつ)功(く)徳(どく)品(ほん)第十七』に説かれています。

 

 『法師品』に説かれる一念随喜

 

 一念随喜の語が最初に説かれたのは法華経『法師品第十』ですが、ここでは仏の在世(ざいせ)と滅後(めつご)に分けて、一念随喜の者の功徳の深重(じんじゅう)なることが明かされています。

 この『法師品』の、

「妙法華経の、一偈(いちげ)一句(いっく)を聞いて、乃至(ないし)一念も随喜せん者には、我(われ)皆(みな)記(き)を与え授く。当(まさ)に阿(あ)耨(のく)多(た)羅(ら)三(さん)藐(みゃく)三(さん)菩(ぼ)提(だい)を得べし」(法華経 318頁)

の文について、天台(てんだい)大師(だいし)は『法華(ほっけ)文(もん)句(ぐ)』に、

「たとえ一句一偈という極めて少ない経文であっても、またそれを聞くのが一念という極めて短い時間であっても、それに随順し歓喜する功徳は遂に成仏の境界を得るのである。まして、五種(ごしゅ)(受持(じゅじ)・読(どく)・誦(じゅ)・解説(げせつ)・書写(しょしゃ))を具足(ぐそく)して信行に励む者の功徳は甚大である(趣意)」

と釈しています。

 

 『分別功徳品』の四(し)信(しん)五(ご)品(ほん)と一念随喜

 

 法華経本門の『分別功徳品第十七』に説かれる「四信五品」とは、法華経本門『寿量品(じゅりょうほん)』の説法を聴聞した功徳につき、釈尊在世の弟子には四信、滅後の弟子には五品の次第があることを示したものです。

 『法華文句』には、四信について、

?一念(いちねん)信(しん)解(げ)(一念の信心を起こす)、?略(りゃく)解(げ)言趣(ごんしゅ)(教法の趣旨をほぼ了解する)、?広(こう)為(い)他(た)説(せつ)(教法を信受し他人のために説く)、?深信(じんしん)観(かん)成(じょう)(深い信心に達し真理を観じて理解する)と説かれています。

 次の五品については、?随喜品(滅後に法華経本門の教説を聞いて随喜の心を起こす)、?読誦(どくじゅ)品(法華経を読誦する)、?説法(せっぽう)品(自ら受持し他人のために説く)、?兼(けん)行(ぎょう)六(ろく)度(ど)品(法華経受持の傍(かたわ)らに六(ろく)波(は)羅(ら)蜜(みつ)を行ずる)、?正(しょう)行(ぎょう)六度品(法華経本門の立場より六波羅蜜を主に行ずる)を説いています。

 このうち、釈尊在世の法華経修行の位である四信の第一「一念信解」と、滅後の五品の第一「随喜品」が一念随喜に当たります。これは法華経『分別功徳品第十七』の、

「又復(またまた)、如来(にょらい)の滅後に、若(も)し是(こ)の経を聞いて、而(しか)も毀呰(きし)せずして随喜の心を起さん。当に知るべし、已(すで)に深(じん)信(しん)解(げ)の相と為(な)す」(法華経 456頁)

を依文(えもん)とするもので、仏滅後に『寿量品』の教説を聞いて毀(そし)らず、随喜の心を起こす初信の位のことです。

 なお、同品には、

「其(そ)れ衆生有って、仏の寿命の、長(ちょう)遠(おん)是(かく)の如(ごと)くなるを聞いて、乃至(ないし)能(よ)く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限(げん)量(りょう)有ること無けん」(同 450頁)

と、四信五品中、現在の四信の初信位である一念信解の功徳を説き明かしていますが、この一念信解は滅後の五品位における随喜品に相当するのであり、一念随喜と同意です。

 

 五十展転(てんでん)随喜の功徳

 

 さらに『随喜功徳品第十八』に至り、滅後五品中の随喜品の因の功徳として五十展転随喜の功徳が説かれています。

 法華経『随喜功徳品第十八』には、

「第五十の人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚(なお)無(む)量(りょう)無(む)辺(へん)阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)なり。何(いか)に況(いわ)んや、最(さい)初(しょ)会(え)中(ちゅう)に於(おい)て、聞いて随喜せん者をや」(同 468頁)

と、五十展転の衆生の随喜の功徳が説かれています。

 これは、仏の滅後に衆生が法華経本門『寿量品』の教説を聞いて歓喜し、他の人へと順々に伝え、第五十番目に伝え聞いて、ただ歓喜しただけの人の功徳でさえも無量無辺であり計り知れない。まして最初に『寿量品』を聞いて随喜し、他の人に伝えた人の功徳はさらに大きく計り知ることができないとして、初(しょ)随(ずい)喜(き)(一念随喜)の功徳を説いたものです。

 

 一念随喜は名(みょう)字(じ)即(そく)位(い)

 

 日蓮大聖人は『唱法華題目抄』に、

「義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も、経文の一偈(げ)一句(く)一念随喜の者、五十展転等の内に入るかと覚え候」(御書 220頁)

と仰せられ、経文の内容を知らない私たち末法の名字即の凡夫が法華経を聞いて信心随喜の心を起こした功徳は、先の『法師品』に説かれた一念随喜の者と、『随喜功徳品』の五十展転の者等と同様の功徳であると説かれています。

 天台では、一念信解と初随喜とを六(ろく)即(そく)位(い)の相似即(そうじそく)あるいは観(かん)行(ぎょう)即(そく)、乃至名字即に当たるとして一定していませんが、大聖人は名字即位とするのが経文の意に適(かな)うと仰せです。

 そして『四信五品抄』に、

「檀戒(だんかい)等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信(しん)解(げ)初(しょ)随(ずい)喜(き)の気分(けぶん)と為(な)すなり。是(これ)則(すなわ)ち此の経の本意なり」(同 1113頁)

と、以信代慧(いしんだいえ)の信を正(しょう)行(ぎょう)とし、妙法を信受して唱題に励むことが初随喜であり、末法(まっぽう)の法華経の本意であると御教示されています。

 

 結 び

 

 私たちは末法の正法である文底(もんてい)本因(ほんにん)下(げ)種(しゅ)の妙法を聴聞し、各々が一念に随喜の心を起こしてこれを信受しているのですから、そこに即身成仏の大功徳が得られることを確信し、さらに精進していくことが肝要です。