11月度広布唱題会の砌
日如上人猊下お言葉
本日は、十一月度の広布唱題会に当たり、皆様には諸事万端御繁忙のところ、信心強盛に参加 され、まことに御労さまでございます。
既に皆様も御承知の通り、今、新型コロナウイルス感染症が一時より下火になったとはいえ、い まだ油断ならない状況にありますが、かくなる時こそ、私どもはしっかりとお題目を唱え、
「早く天下の静謐を思は 須く国中の謗法を断つべし」(御書 二四七ページ)
との御金言のままに、講中一結・異体同心して折伏を行じ、妙法広布に邁進していかなければならないと思います。
大聖人様は『持妙法華問答抄』に、
「『三界は安きこと無し、猶火宅の如し』とは如来の教へ『所以に諸法は幻の如く化の如し』とは菩薩の詞なり。寂光の都ならずば、いずくも皆苦なるべし。 本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは『現世安穏後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。 須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(300ページ)
と仰せであります。
この御金言を拝する時、私どもは値い難き生をこの世に受け、さらに値い難き仏法に巡り値えた身の福運を心から喜ぶとともに、この妙法を一人でも多くの人々に伝え、折伏していくことが、いかに大事であるかを知らないればなりません。
大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に、
「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりなが奏しもせず、私にもあだまずば、奉公みなうせて還ってどがに行なはれんが如し、当世の人々は謗法の者としろしめすべし(同322ページ)
と仰せであります。
まさにに、悪世末法の世相そのままに、謗法の害毒によって混沌とした現状を見る時、この窮状を抜本的に救済するするには、私ども一人ひとりが断固たる決意と勇気をもって折伏を行じ、もって不幸よ混乱と苦悩の原因たる邪義邪宗の誘法を対治し、身軽法重・死身弘法の御御訓のままに妙法広布に挺身していくことが、今、最も急務であると知るべきであります。
どうぞ皆様には、このことをしっかりと胸に刻み、一天広布を目指し、講中一結して折代を行ぜられますよう心からお祈りし、本日の挨拶と致します。
Q15.「三大秘法とは何か」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.三大秘法とは、
本門の本尊……大聖人が弘安二年十月十二日に図顕された本門戒壇の大御本尊
本門の戒壇……本門の本尊を安置する所
本門の題目……本門の本尊を信じて唱える題目
であり、本門の本尊に「人」と「法」、本門の戒壇に「事」と「義」、本門の題目に「信」と「行」という六義(六大秘法)の立て分けがあります。
しかし、これらは別個の存在ではなく、日寛上人が『依義判文抄』に、
「三大秘法を合すれば則ち但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり」 (六巻抄八二頁)
と仰せのように、三大秘法は一大秘法である本門戒壇の大御本尊から開かれたものであり、また一大秘法として戒壇の大御本尊に納まります。
このように本門戒壇の大御本尊を離れて三大秘法はありえないのですから、大御本尊を信仰の対象から外して、三大秘法のみを信ずるという創価学会の信仰は観念論に堕しているのです。
(創価学会員に問いただそう)
○日寛上人は三大秘法に六義あることを示されていますが、あなたはこれを認めますか?
は い ⇒ 事の戒壇は弘安二年の大御本尊が在す場所です。それを否定する創価学会は間違っていますね。
いいえ ⇒ 日寛上人の御指南に随順していません。
Q14.「学会が大御本尊を拝めなくなったのは宗門が破門したからだ」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.創価学会が破門されたのは、平成二年十一月十六日の池田名誉会長の慢心スピーチに端を発しています。その後、学会は、御法主上人への誹謗や宗門僧侶への嫌がらせを繰り返し、これに対し宗門は、学会を再三、訓誡しました。
しかし、学会がまったく耳を貸さなかったため、宗門は平成三年十一月二十八日に創価学会を破門にしました。
このように、創価学会は自らの謗法行為によって、大御本尊を拝むことができなくなったのです。
あなたが正しい信仰に目覚めて日蓮正宗に帰依すれば、いつでも大御本尊を拝むことができるのです。
Q13.「御書だけで議論しようではないか」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたは何のために議論したいのですか。法義を論ずるのは、日蓮大聖人の御真意を知り、正しい信仰をするためでなければなりません。
日蓮正宗においては、教義に関する正否の裁定は、血脈付法の御法主上人の権能と定められています(宗規第七条)。
それは、日興上人が、
「御抄を心肝に染め極理を師伝して云々」 (日興遺誠置文・御書一八八四頁)
と仰せられるように、日蓮大聖人の御書と、それを誤りなく解釈するための「極理の師伝」を根本とするからです。
ところで、「御書だけ」に限定して議論したいと言うところを見ると、創価学会にとっては、日興上人以来の相伝がよほど都合が悪いようですね。
日蓮正宗では、教義・信仰に関して、御書の文言として直接著されない事柄であっても、血脈相伝に基づく御指南であれば、それが宗祖大聖人の御真意であると拝しますから、御書にないからといって、信仰の上で、すこしも困ることはありません。
それに対して、「御書根本」と称して御書以外の御歴代上人や歴代会長の言葉を拒否しなければならない創価学会は、さぞかし説明に困ることが数多くあるのではないでしょうか。
あなたが、どうしても御書の文言にないものは信用しないと言うならば、まず次の問いに答えなさい。
(一)創価学会では日蓮大聖人を末法の御本仏と崇めていますが、「日蓮は末法の本仏なり」とする直接的な御書の文証を挙げなさい。
(二)創価学会が言う「在家教団でも御本尊を認定できる」とする御書の文証を挙げなさい。
(三)在家の者が葬式の導師を勤めてもよい、という御書の文証を挙げなさい。
(四)御本仏日蓮大聖人のほかに仏法上の「永遠の師」を立ててもよい、という御書の文証を挙げなさい。
また、あなたが御書の文言を忠実に実行する「御書根本」の人ならば、まず手始めに『報恩抄』の、
「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六頁)
の御文のとおり、釈尊の仏像を拝むべきです。
この一事をもってしても、創価学会がはてしない矛盾のスパイラルにおちいっていることは明らかです。
しかも、御本仏日蓮大聖人の出世の本懐たる人法一箇の大御本尊を放棄した創価学会が、いずれは日蓮大聖人をも放棄することは誰の目にも明らかです。
そうなれば、創価学会の言う「御書根本」も死語になってしまうのです。
Q11.「御書には、大御本尊について何も書かれていないではないか」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたは「日蓮大聖人の御書に記述されていないことは、大聖人の教義ではない」 と言いたいのでしょうが、それは幼稚で短絡的な発想です。これについて、次の四点からお答えします。
①極理の師伝
日蓮大聖人の御書を正しく理解するには、 「極理の師伝」たる血脈相伝の御指南がなければなりません。
第二祖日興上人は『遺戒置文』に、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(御書一八八四頁)
と仰せられ、日蓮大聖人の仏法の信仰においては、大聖人の御書を心肝に染め、極理を師伝しなければならないと指南されています。
「極理の師伝」とは、仏法の究極を師匠から弟子に伝えることで、宗祖大聖人から第二祖日興上人へ伝えられた唯授一人の血脈相承を言います。
これについて、 『百六箇抄』には、
「直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闇梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず悉く付嘱せしめ畢ぬ」(御書一七〇二頁)
とあります。
この唯授一人の血脈相承は、第二祖日興上人から第三祖日目上人へ、第三祖日目上人から第四世日道上人へと次第し、第六十八世日如上人まで、法灯連綿として伝えられています。
②釈尊像を本尊とする不相伝家
一例を挙げますと、御書のどこを探しても「日蓮は本仏なり」とか「日蓮を本尊とせよ」とのお言葉はありません。
むしろ、『御講聞書』には、
「教主釈尊こそ世尊の本にては御坐し候へ」 (御書一八二五頁・傍線筆者)とあり、『報恩抄』には、
「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(同一〇三六頁・傍線筆者)とあって、教主釈尊を仏とし、本尊とせよと明示されています。
身延日蓮宗などの不相伝家は、このような文言の表面にのみ執われて、釈尊を本仏と仰ぎ、釈尊像を本尊としているのですが、これはまさしく、相伝(極理)を知らないことによる誤りなのです。
③「日興が身に宛て給はる所の大御本尊」とは本門戒壇の大御本尊
御書に「大御本尊」の記述がないということについて言えば、大聖人の御内証の一切は日興上人に伝えられているのですから、日興上人の御指南が日蓮大聖人の御正意なのです。
日興上人は日目上人への譲り状に、
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」(日興跡条々事・御書一八八三頁)
と書き残されましたが、『百六箇抄』には、
「日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり」(御書一七〇二頁)
とあり、「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは、「嫡々相承の曼荼羅」であることは明らかです。
日寛上人は、この『百六箇抄』の御文について、
「嫡々相承の曼荼羅とは本門戒壇の本尊の御事なり」(文底秘沈抄・六巻抄六八頁)
と明確に指南されています。
このように「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊」とは、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊であることは明白です。
④「余は二十七年なり」とは大御本尊の予証
『聖人御難事』には、
「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(御書一三九六頁)
とあり、大聖人が弘安二年十月に出世の本懐を遂げられた旨が明かされています。
日寛上人は、宗祖の出世の本懐について、
「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり」(観心本尊抄文段・文段一九七頁・傍線筆者)
と仰せられ、本門戒壇の大御本尊が宗祖の本懐であることを指南されています。
また日寛上人は同文段に、
「弘安二年、御年五十八歳の十月十二日に戒壇の本尊を顕わして」(同一九六頁・傍線筆者)
と、宗祖大聖人が御年五十八歳の弘安二年十月十二日に出世の本懐である大御本尊を図顕されたことを明かされています。
したがって、弘安二年十月十二日から立ち返って見れば、同年十月一日に著された
『聖人御難事』に「余は二十七年なり」と仰せられた御文は、本門戒壇の大御本尊を御図顕する予証であったことがわかるのです。
このように、血脈相伝にもとづいて拝すれば御書に明白である御教示も、相伝のない者から見れば「御書のどこにもない」ということになるのでしょう。
(創価学会員に問いただそう》
○あなたは、唯授一人血脈相承を受けられた日興上人や日寛上人の御指南に随順しますか。
はい ⇒ 日興上人今日寛上人の御指南に背いて、大御本尊への信仰を放棄した創価学会は間違っていますね。
いいえ ⇒ あなたは血脈相承を無視する身延日蓮宗と同じですね。釈尊を本仏とし、釈尊像を拝むべきです。