Q8.「大御本尊は大謗法の地にあるから、受持の対象としない」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたは、大石寺を「大謗法の地」と言いたいようですが、それは創価学会が大御本尊を放棄するための、取って付けた口実に過ぎません。
大石寺は日興上人の開創以来、代々の御法主上人が日蓮大聖人の血脈を承継し、本門戒壇の大御本尊を厳護して、七百有余年、寸分違わず受け継がれています。その大石寺に大謗法など、あるはずがありません。
Q7.「大御本尊と家庭の御本尊は同じだ」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.日寛上人は、本門戒壇の大御本尊が根源の御本尊であり、御歴代上人が書写された御本尊は枝流の御本尊であると指南されています(本書42頁参照)。なお、根本の大御本尊を放棄した創価学会員が所持する御歴代上人御書写の御本尊は、血脈が切れていますので、功徳はありません。
矛盾だらけで根拠もないー顕正会
諸宗教破折
昨今、「エビデンス」という言葉が広く浸透している。
その意味である「根拠」「証拠」が、意見を主張する際に重要視されるのは古今東西変わらないが、インターネットやSNSの発達で情報や主張があふれる今日、ますます意義は重いものとなっている。
特に、公の団体や、ある程度の人数を擁し社会的責任を問われるであろう組織の広報誌では、その点に敏感になってしかるべきではないだろうか。
ところが、顕正会発行の顕正新聞には、根拠の全くないか薄弱な記事が堂々と掲載されている。 情報周知の役目も担う広報誌が、浅井昭衛ら顕正会がいかに社会常識から逸脱した組織かを露呈・宣伝しているのだ。
看板に偽りあり
顕正新聞の令和三年八月二十五日付には、「新・新潟会館」が落成した記事が掲載されていて、その全景写真に「富士大石寺顕正会新潟会館」の看板が見える。
浅井は平成八年頃、
「大石寺顕正会』と名乗って国諫暁に臨みたい。(中略)実は私は、今の宗門があまりに腐敗堕落しているので、『日蓮正宗』と名乗ることが恥ずかしいのです」(富士平成九年一・二月合併号)
といって、「冨士大石寺顕正会」を名乗るようになった。「日蓮正宗」が恥ずかしいのに「富士大石寺」ならいいのだろうか。 大石寺は日蓮正宗の総本山であるのだが。
しかも顕正会は「天母山に国立戒壇建立」をめざしている。 なぜ「大石寺」の名にすがるのか、やはり大いなる矛盾が気になる。
そもそも、日蓮正宗総本山大石寺と全く関係のない団体が「大石寺」を名乗る欺瞞を、どう思っているのか。 まさに「看板に偽りあり」である。
本尊の出処を明らかにせよ
また、この会館落成に当たり「入仏式」が行われたが、この本尊は一体どこから出たものなのか。
この問題につき、宗門からの再三の指摘に対して、浅井は逃げ回り、知らぬ存ぜぬの無責任な態度で、未だ弁明できていない。
勝手に作った本尊であるならば、「入偽仏式」とでも言おうか。
その一方、指導では、
「この堂々たる新潟会館に、御本尊様が御出ましになられたこと、何より私は有難く思っております。どうかこの御本尊様を、富士大石寺にまします本門戒壇の大御本尊、生きてまします日蓮大聖人と深く信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉る信行に徹してほしいと念願しております」(顕正新令和三年八月二十五日付)
と言いながら、後半で、
「いま広布最終段階の信行として (中略) 遥拝勤行こそ、大聖人様の御心に叶う唯一の言行なのです」(同)
としている。
疑惑にも答えられない本尊を、わざわざ各地の会館に安置しながら、「遥拝勤行が唯一の信行」とは矛盾も甚だしい。 浅井の指導には、根拠も整合性もあったものじゃないのである。
根拠のない誹謗中傷
他にも、過去に顕正新聞に、総本山第六十六世日達上人の御遷化の相に関して、「会員の又聞き」に飛びつき、嬉々として「悪相であった」などと中傷した浅井の指導を掲載していた。
「又聞き」の真相は、日達上人の縁戚を騙った会員による誤言と言うべきものであったのだが、裏づけも取らず、堂々と「指導」に取り入れ、新聞にまで掲載するとは、三流ゴシップ紙も真っ青である。
このような「根拠」を軽視した姿勢は、社会常識から逸脱した顕正会の体質を、よく表わしている。
仏法と申すは道理なり
日蓮大聖人は、
「仏法と申すは道理なり」(御書 一二七九)
と仰せである。
我々は、会員が、仏法はもとより一般世問の道理からも離れた、浅井ら顕正会の実態にいち早く気づいて正信に帰すよう、折伏していこう。
Q6.「弘安二年の大御本尊とは何か」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.日蓮大聖人が御年五十八歳のとき、弘安二(一二七九)年十月十二日に出世の本懐として図顕された大漫茶羅のことです。
この御本尊を「本門戒壇の大御本尊」と申し上げますが、その意味は、広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇(事の戒壇)に安置される御本尊ということです。
また、この御本尊を「一閻浮提総与の御本尊」とも申し上げますが、それは一切衆生が尊崇すべき根本の御本尊という意味です。