法華経について㉘
法華経について(全34)
28大白法 平成28年7月1日刊(第936号)より転載
『薬王菩薩本事品第二十三』
当品の説処について
今回学ぶ『薬王菩薩本事品第二十三』から『妙荘厳王本事品第二十七』までの五品は、本門流通分、付嘱流通中の化他流通に当たります。
法華経は、一部八巻二十八品からなりますが、初めの『序品第一』から『法師品第十』までは王舎城近くの霊鷲山で法を説かれたので霊山会と言います。
次に、『見宝塔品第十一』から前回の『嘱累品第二十二』までの十二品は、霊鷲山の遥か上空の虚空で説かれたので虚空会。
そして今回の『薬王菩薩本事品第二+三』から『普賢菩薩勧発品第二十八』までの六品は、再び霊鷲山に戻って説かれるので霊山会と言い、これを二処三会と言います。
前回の『嘱累品』において、釈尊は法華経の総付嘱を終えると、十方より来集した分身の諸仏を、その各々の本土に帰らせようとして、「仏たちは、それぞれ安楽にして随意になされよ。多宝如来の塔は、再び元の通りになされよ」と述べられました。そして虚空会に留まっていた多宝如来の宝塔の扉が閉じられました。そして釈尊自身も空中の多宝如来の宝塔から霊鷲山の上に降りられました。こうして虚空会の儀式を終えられ、再び霊鷲山の会座の場所へと戻られたのです。ここから、今回の『薬王菩薩本事品第二十三』の説法が始まります。
当品の大意
当品では、薬王菩薩の本事(注1)を明かして、法華経を身をもって実践することを勧奨し、さらに法華経受持の功徳を説き、法華経の流通を促しています。
注1……本事 「本」とは、本地や本生などのように大本の意。「事」は実際の行為や出来事、修行の意
薬王菩薩の本事について
当品は初めに、宿王華菩薩が釈尊に対して、薬王菩薩の本事を問うところから始まります。
薬王菩薩は、遥か昔、日月浄明徳仏の弟子で、名を一切衆生憙見菩薩と言いました。日月浄明徳仏のもとで法華経を学んで長い間精進し「現一切色身三昧」を体得しました。これは、相手に応じて自在に姿を現わして法を説くことができる三昧(精神統一の力)です。
一切衆生憙見菩薩は、法華経によって得た三昧の力で、様々な華や香水を降らして仏を供養しましたが、身をもって供養するほうが勝っていると考え、千二百年もの間、香油を飲み、体中に香油を注いで自らの身を燃やし、日月浄明徳仏を供養したのです。その光明は、ガンジス河の砂の数の八十万億倍の世界をくまなく照らしました。
その焼身供養の姿に、諸の仏たちは皆一同に、
「善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり。是を真の法をもって如来を供養すと名づく」(法華経 五二六㌻)
と言って讃嘆しました。
そして一切衆生憙見菩薩は千二百年もの間、体を燃やし続け、ついに燃え尽(つ)きたのです。
諸仏が一同に薬王菩薩の焼身供養を讃嘆(諸仏同讃)して述べられた句に関連する話として、天台大師が師である南岳慧思のもと、大蘇山において法華経を修行していたとき、この句に至って悟りを開かれたと伝えられています。これを大蘇開悟と言い、これにより天台大師は、薬王菩薩の後身と言われるようになりました。
再度の焼身供養
千二百年もの間焼身供養し命終した一切衆生憙見菩薩は、再び日月浄明徳仏が在す国土の浄徳王の家に、結跏趺坐したままの姿で、即座に化生(注2)したのです。そしてまた、仏のもとへ詣でて礼拝供養しました。この時、仏は「私は今夜入滅するであろう。私は今、仏法及び遺品のすべてと我が舎利を汝に付嘱するから、汝は仏法を流布し、塔を建てて供養せよ」と告げ、間もなく入滅されました。一切衆生憙見菩薩は嘆き悲しみ、栴檀の薪で火葬供養し、舎利を収集して八万四千もの塔を建立しましたが、それでも飽き足らず、その塔の前で自身の臂を焼いて、七万二千年もの間供養したのです。
人々は、菩薩の臂が燃えてなくなったことに悲しみましたが、菩薩は「私は、臂を焼いた功徳により、必ず仏の金色の身を得るのだ。それが真実であるならば、我が両臂は元通りとなろう」と誓いを立てると、菩薩の福徳によって、たちまち元通りとなり、宇宙法界が振動して天から華が降り、すべての人々は心から感激したのです。
注2……化生 四生〈卵生・胎生・湿生・化生〉の一つで、忽然とよりどころなくして生ずる意味と、衆生を救うために、神通力によって種々に形を変えて生まれる意味がある
法華経弘通の功徳と広宣流布の大法
このように、一切衆生憙見菩薩の故事を明かされてから、釈尊は宿王華菩薩に言いました。
「この菩薩こそ薬王菩薩その人である。身を捨てて法華経を供養する功徳は、このように無量である。もし仏の悟りを得ようとするならば、よく手足の指一本でも灯して仏の塔を供養しなさい。それは全世界の国土や宮殿・宝物を供養するより、遥かに勝れている。また、全世界を七宝で満たして仏に供養するほどの功徳であっても、この法華経の一偈一句を受持する功徳には及ばない」
そこで釈尊は、宿王華菩薩に対して、法華経が諸経において最も勝れていることを十の譬え(十種の称揚※図表参照)をもって説き明かされました。
続いて釈尊は、「宿王華よ、法華経は一切衆生を、あらゆる苦しみから救い、楽を与える経典である。この法華経は一切の生死の苦しみを解くのである」と述べられ、法華経の功能を十二の譬え(※図表参照)をもって示されました。
そして、「もし、この法華経を聞くことを得て、自らも信行し、他をも勧めるならば、その人の得るところの功徳は、仏の智慧をもってしても計ることはできない」と、法華経弘通の功徳を明かされました。
さらに釈尊は、続けて次のように説かれました。
「宿王華よ、この『薬王菩薩本事品』を汝に付嘱す。汝は、法華経を仏の入滅の後の、後の五百歳すなわち末法の時代に、この娑婆世界に広宣流布させて、けっして断絶させるようなことがあってはならない。たとえ悪魔や魔民・夜叉等がこれを破ろうとしても、汝は神通力をもって、この法華経を守護すべきである。なぜなら、この法華経は全世界の人々の病を癒やす良薬だからである。もし、病のある人がこの経を聞いたならば、たちまちに病は消滅して不老不死となるであろう」
この法華経つまり本因下種の妙法は、末法において、必ず広宣流布すべき大法であるということが示されました。このため、宿王華菩薩は、悪魔・魔民等が便りを得て、妙法流布を阻害することのないよう、『薬王品』の付嘱を受けているのです。これは、宿王華菩薩が末法に出現して妙法を弘めるということではなく、妙法と、妙法を受持信行し弘通する私たちを必ず守護するということです。
そして、この妙法は一切衆生の病の良薬であり、この妙法によって、私たちのすべての病が消滅し、不老不死という尊い常住の仏としての生命が得られるとされています。この時、八万四千の菩薩が解一切衆生語言陀羅尼(一切衆生の言葉を理解し記憶する能力)を得たので、多宝如来は宝塔の中より、宿王華菩薩の質問の功を愛でたのでした。
以上で、『薬王菩薩本事品』は終了いたします。
御法主日如上人猊下は、平成二十六年十一月度の広布唱題会の砌、『薬王菩薩本事品』の、
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経 五三九㌻)
の経文を引かれて、次のように御指南されています。
「すなわち、広宣流布は必ず達成すると仰せでありますが、しかし、広宣流布は我々の努力なしでは達成することはできません。
そこに今、我々が大聖人様の弟子檀那として、一切衆生救済の慈悲行である折伏をなすべき大事な使命があり、責務が存していることを知らなければなりません。そして、その使命と責務を果たしていくところに、我ら自身もまた広大なる御仏智を被り、計り知れない大きな功徳を享受することができるのであります」(大白法 八九七号)
今、私たちは平成三十三年の法華講員八十万人体勢構築をめざして、毎年の支部折伏誓願目標を完遂すべく日夜、折伏行に邁進しています。どのような障魔が競い起ころうとも、御指南の通りに自行化他の信心に励んでいれば、仏菩薩、諸天の守護を得て、広大無辺なる功徳を享受できることを確信し、さらに精進してまいりましょう。
法華経について㉗
法華経について(全34)
27大白法 平成28年6月1日刊(第934号)より転載
『嘱累品第二十二』
当品は本門流通分の付嘱流通のうち、先の『如来神力品第二十一』と共に嘱累流通に当たります。
先の『神力品』では、釈尊から地涌の菩薩に「四句の要法」の付嘱がなされ、滅後末法の弘通が託されました。
当品では続いて、すべての菩薩たちへの付嘱が説かれます。
摩頂付嘱
釈尊は、虚空における多宝塔の説法の座より立ち上がって出で、再び大いなる神通力をもって、右の手ですべての菩薩の頭をなでられました。
そして、次のように述べられました。
「私釈尊は、無量の数え切れないほどの長い年月にわたって、得難い無上の悟りである妙法を習い修行をして、体得してきたのである。そして、今、この大法をすべての菩薩に付嘱しよう。そなたたちは、一心にこの法華経を流布して、広く世の人々を利益していきなさい」
このようにして、釈尊は三度にわたって一切の菩薩たちの頭をなでて、繰り返して、「私釈尊は、無量の数え切れないほどの長い年月にわたって、得難い無上の悟りである妙法を習い修行をして、体得してきたのである。そして、今、この大法をすべての菩薩に付嘱しよう。そなたたちは、この法華経を受持し、読誦し、広く流布して、一切の衆生に聞かせて理解させ修行なさしめなさい」
と述べ、続いて、次のように説かれました。
「その訳は、仏は大きな慈悲を持って、何事も物惜しみすることなく、また畏れはばかるところなく、人々に仏のすべての智慧を与えることができるのである。故に、仏は一切の衆生にとって法を施してくれる大施主であり、そなたたちも仏にしたがって妙法を学び、信受して、けっして物惜しみの心を生じてはならないのである。未来世において、男性であれ女性であれ、もしこの円満なる仏の智慧を信受しようという者がいたならば、まさにその人が仏の智慧を得ることができるように、この法華経を説き聞かせなさい。しかし、もし信受しようとしない者がいたならば、まず法華経に至る前の段階に当たる深い教えを説き聞かせて、その者らを教化して利益を与え、歓喜の気持ちを起こさせるところから始めなさい。このように法華経を弘通するならば、すなわちそれが諸の仏の恩を報ずることになるのである」
この釈尊の御言葉を聞いた菩薩たちは、大いに歓び、ますます仏を敬って深く礼拝して頭を下げ、合掌して声を揃えて次のように申し上げました。
「釈尊の勅の通りに実行いたしましょう。ですので、御心配なさらないでください」
諸の菩薩は、同じ言葉を三度申し述べました。
そして、付嘱を終えた釈尊は、十方の世界より集まった自らの分身の仏を、それぞれの本土に帰らせるために、
「諸の仏たちよ。もとの国土に戻り、安らかになされよ。また多宝如来の宝塔は閉じて、元のようになしたまえ」
と仰せられました。
この御言葉を聞いた宝樹の下にいた分身の諸仏や多宝仏、また上行菩薩をはじめとする無数の菩薩たち、舎利弗らの声聞衆に諸天や阿修羅たちは、皆大いに歓喜の心を起こし、当品の説法は終わります。
総別の付嘱と三時弘経の次第
当品の付嘱は『宝塔品』の、
「仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」(法華経 三四七㌻)
の通命に対する付嘱であり、地涌の菩薩のみではなく一切の菩薩に、釈尊滅後の弘教を付嘱されたことから総付嘱と言います。
この総付嘱について、大聖人は『曽谷入道殿許御書』に、
「釈尊、然後正像二千年の衆生の為に、宝塔より出でて虚空に住立し、右の手を以て文殊・観音・梵・帝・日・月・四天等の頂を摩でて、是くの如く三反して法華経の要よりの外の広略二門、並びに前後一代の一切経を此等の大士に付嘱す。正像二千年の機の為なり」(御書 七八五㌻)
と仰せられています。この御金言を拝して、別付嘱と対比しつつ、教・機・時の三つから説明します。
まず教について、法華経を広略要の観点から拝しますと、広の法華経とは一部八巻二十八品を言い、略の法華経とは『方便品』と『寿量品』の二品のことを言います。これに対し、要の法華経とは題目の南無妙法蓮華経のことです。
この広略要を種熟脱の三益と総別の付嘱から見れば、広略の法華経は熟脱の仏法であり、当品で総付嘱し、要の法華経は文底下種の仏法として上行菩薩に結要付嘱(別付嘱)されました。
次に機と時からみれば、釈尊の滅後は正法・像法・末法の三つの時代があります。
このうち正像二千年は総付嘱された法華経弘通の時代となり、末法は別付嘱の法華経の時代となります。
つまり、正像二千年の衆生は既に過去に下種を受けた本已有善の衆生であるため、総付嘱にしたがって、広略の熟脱の法華経が弘められました。
それに対し、末法の衆生は未だ過去に下種結縁を受けたことのない本未有善の衆生であるため、別付嘱にしたがって地涌上行菩薩が出現して、要の法華経である文底下種の南無妙法蓮華経を弘められる時代なのです。
この末法出現の上行菩薩とは、正しく宗祖日蓮大聖人の御事であります。さらに本宗の御相伝によれば、ここに外用は上行菩薩、内証は久遠元初の自受用報身如来であられることが拝されるのです。
こうした付嘱にしたがって、正像時代には迹化薬王菩薩の再誕である天台大師や伝教大師が現われて、広略の法華経を弘められました。
そして、日蓮大聖人は、末法時代に御出現されて結要付嘱の要法を三大秘法として御建立されたのです。
五老僧の異解
ところが大聖人の弟子檀那の中で、この立て分けを正確に理解されたのは、日興上人とその門流だけでした。
そのために五老僧の申状では、それぞれが「天台の沙門」や「天台法華宗の沙門」と名乗り、大聖人は「天台の余流を酌」むなどと述べているのです。
それに対して日興上人は、
「夫日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘通の大権なり(中略)今末法に入っては上行出世の境、本門流布の時なり。正像已に過ぐ、何ぞ爾前迹門を以て強ひて御帰依有るべけんや。就中天台伝教は像法の時に当たって演説し、日蓮聖人は末法の代を迎へて恢弘す、彼は薬王の後身此は上行の再誕なり、経文に載する所、解釈炳焉たる者なり(中略)何ぞ地涌の菩薩を指して苟しくも天台の末弟と称せんや」(同 一八七六㌻)
と、末法の今時は結要付嘱を受けた上行菩薩の再誕である大聖人が、寿量文底秘沈の大法である南無妙法蓮華経を弘められる時であり、天台大師・伝教大師は総付嘱を受けた薬王菩薩の後身として、文上熟脱の法華経を弘めたのであると明確に示されています。
日興上人は、このように天台・伝教と大聖人の立場が異なることを奏上され、五老僧の誤った考えを厳しく指摘されております。
私たちは、法華経の総別の付嘱と正・像・末の三時における弘経の次第をしっかりと学び、大聖人より連綿と血脈を御相承された御法主上人猊下の御指南を根本に、信心修行に励んでまいらねばなりません。
さあ、平成三十三年の御命題成就をめざして、折伏に邁進していきましょう。
法華経について㉖
法華経について(全34)
26大白法 平成28年5月1日刊(第932号)より転載
『如来神力品第二十一』
今回は、『如来神力品第二十一』について学んでいきます。
題号の「如来神力」とは、釈尊が滅後の弘通を付嘱するために、十種の神力を現じたことに由来します。
本門流通分のうち、『分別功徳品第十七』の後半から前回学んだ『常不軽菩薩品第二十』までは、釈尊により、功徳流通として滅後末法の信心修行の因果の功徳が説かれ、さらに過去の常不軽菩薩の故事が明かされました。
『如来神力品』以降の八品では、嘱累・化他・自行に約して付嘱流通が説かれます。その中でも当品と『嘱累品』は、嘱累流通に配当されます。
如来の神力
これまでに滅後流通の功徳と信毀罪福の大なることを聴聞した地涌の菩薩たちは、当品の冒頭において、皆揃って釈尊の前に進み出ます。そして、一心に合掌礼拝して次のように申し上げました。
「私たちは、仏の滅後、娑婆世界はもとより、分身の諸仏の滅度の国土においても、広く妙法を弘通いたします。なぜならば、私たち自身も真に清浄な大法を得て、受持・読・誦・解説・書写して供養したいからであります(趣意)」(法華経 五〇九㌻)
すると釈尊は、文殊師利菩薩をはじめとする無量百千万億の娑婆世界に住する一切衆生の前で、大神力を顕わされました。
この神力は次の十種です。
①吐舌相―広長舌を出して上梵世に至らせる
②通身放光―身体中の一切の毛孔(毛穴)から無量無数色の光を放ち、遍く十方世界を照らす
③一時謦欬―広長舌を摂めて一時に咳払いをする
④倶共弾指―諸菩薩が弾指する
⑤地六種動―謦欬と弾指の響きが十方諸仏の世界に至り、大地が皆六種に震動する
⑥普見大会―十方世界の一切衆生が、皆娑婆世界の三仏(釈尊・多宝如来・師子座上の十方分身の諸仏)及び菩薩を見る
⑦空中唱声―諸天が虚空中において、釈尊の妙法説法と衆生の随喜供養を唱える
⑧咸皆帰命―十方世界の衆生が虚空中の声を聞き、合掌し釈尊に帰命する
⑨遙散諸物―華香・瓔珞・幡蓋・諸々の厳身具・珍宝・妙物を、遙か娑婆世界に散ずる
⑩十方通同(通一仏土)―十方世界が通達無礙、一仏国土となる
これらは、爾前迹門では現われたことのない大神力でした。そのことからも、これから付嘱される妙法の功徳がいかに広大無辺であるかが拝されます。
この十神力について、中国の妙楽大師は、『法華文句記』の中で、前の五つは在世のため、後の五つは滅後のために顕わされた、と釈されています。
日蓮大聖人は御本仏の御境界から、
「此の十種の神力は在世滅後に亘るなり。然りと雖も十種共に滅後に限ると心得べきなり」(御書 一七八三㌻)
と、滅後に約して御教示あそばされています。これは、『観心本尊抄』に、
「此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て、上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したまふなり」(同 六五九㌻)
と仰せられていることからも明らかです。
十種の大神力が顕わされると、釈尊は上行菩薩を筆頭とする地涌の菩薩たちに対し、法華経の滅後弘通を付嘱されました。
この付嘱は、称歎付嘱・結要付嘱・勧奨付嘱・釈付嘱から成ります。次品『嘱累品第二十二』における「総付嘱」は、一切の菩薩に対する法華経一部の付嘱であるのに対して、当品における付嘱は、本化地涌の菩薩に法華経の肝要を付嘱されることから、「別付嘱」とも称されます。
要を結して受持を勧む(説相の大意)
釈尊は上行菩薩等に告げられます。
称歎付嘱(付嘱の功徳が大なるを称える)
諸仏の神力は無量無辺であるが、その神力を用いて無量無辺百千万億阿僧祇劫という長い間、付嘱のために妙法の功徳を説いたとしても説き尽くすことはできない。
結要付嘱(「四句の要法」に括られた付嘱の内容)
「以要言之。如来一切所有之法。如来一切自在神力。如来一切秘要之蔵。如来一切甚深之事。皆於此経。宣示顕説(要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す)」(法華経 五一三㌻)
しかしながら、枢要を取り妙法の精粋を述べるならば、如来の一切の所有する教え、如来の一切の無礙自在な神力、如来の一切の不可思議の実相、如来の一切の深い因縁果報は、すべて妙法蓮華経に説き明かされている。
勧奨付嘱(修行・起塔を勧める)
したがって、あなたたちは仏滅後、一心に妙法を受持・読・誦・解説・書写し、教説の通りに修行しなさい。どのような国土にあっても、教説のままに修行したとする。それが法華経が在す場所であるならば、たとえ園の中であっても、また林の中、樹の下でも、あるいは寺院や在家の家、殿堂であっても、もしくは山谷・広野であったとしても、そこに塔を建てて供養すべきである。
釈付嘱(修行の功徳を解釈する)
なぜならば、妙法の在す所が、そのまま道場だからであり、諸仏は、そこにおいて悟りを開き、説法をされ、入滅されるのである。
付嘱の法体
以上、四段からなる付嘱において最も大事なのは、肝要となる付嘱の内容を顕わされた結要付嘱です。迹化・他方の菩薩方による誓願を制止された釈尊が、当品に至り、ついに本化地涌の菩薩へと滅後流通を付嘱されたのです。
『従地涌出品第十五』を学んだ際に、地涌の菩薩の外用と内証について概説しました。そのうちの外用の御立場として大切なのは、開近顕遠と結要付嘱の二義を顕わすために出現されたということです。
釈尊は、法華経の肝要を四句の要法に括って上行菩薩に付嘱されました。これを天台大師は、
「結要に四句有り。(中略)唯四なるのみ。其の枢柄を撮って之を授与す」(法華文句記会本下‐四六七㌻)
と、名体宗用教の五重玄の依文として、概略的に釈されています。
これに対して日蓮大聖人は『御義口伝』に、
「一経とは本迹廿八品なり。唯四とは名用体宗の四なり。枢柄とは唯題目の五字なり。授与とは上行菩薩に授与するなり。之とは南無妙法蓮華経なり」(御書 一八〇五㌻)
と、また『三大秘法稟承事』に、
「所説の要言の法とは(中略)寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(同 一五九三㌻)
と仰せられています。付嘱の法体を明確に御示しになり、本尊付嘱としての意義が明らかです。
こうして妙法の一切は釈尊から上行菩薩の所有となり、この付嘱の筋目によって末法に上行菩薩の再誕・再往久遠元初自受用報身如来の再誕として御出現されたのが、宗祖日蓮大聖人です。大聖人は、妙法を弘通することで惹起した大小種々の難を忍び、三類の強敵を扣発して一人法華経を身読され、末法の一切衆生救済のために、付嘱の法体を三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊として御図顕あそばされたのです。
応に此の経を受持すべし
付嘱の後、釈尊は義を重ねて宣せられるために偈頌を説かれ、その最後に、
「我が滅度の後に於て 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定して疑有ること無けん」(法華経 五一七㌻)
と結ばれています。『如来神力品』における結要付嘱の功徳として、釈尊の滅後、正像時代を過ぎた末法時代においては、妙法を受持する一行に五種妙行の一切が具わり、凡夫の即身成仏があることを説かれて結語とされたのです。
私たちは、法華講衆として大御本尊を信受したとき、深い因縁により、一人ひとりが地涌の流類・地涌の菩薩の眷属であるとの実証を示すことができます。したがって、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年に向けて、大聖人の本眷属であるとの自覚に立ち、妙法弘通に挺身していくことが大切です。
1177夜:宗教依存症から立ち直るために
2022年2月17日
(さらに…)
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