八、本地甚深の奥蔵
天台の釈に、
「此の妙法蓮華経は、本地甚深の奥蔵(中略)三世の如来の証得する所なり」
(玄義会本上二五頁)
と説かれている。これは、あらゆる経典のなかで、妙法蓮華経が唯一最高の教法ということである。
日寛上人は、この文について、
「文に『本地』とは、即ち是れ本門の戒壇なり。謂わく、本尊所住の地なり、故に本地と云う。本尊所住の地、豈戒壇に非ずや。文に『甚深』とは、即ち是れ本門の本尊なり。
天台の玄の一二十一に云わく『実相を甚深と名づく』云云。妙楽の云わく『実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土』云云。実相・甚深、豈一念三千の本尊に非ずや。文に『奥蔵』とは、奥蔵は能歎なり。例せば爾雅の第四に『最も深隠と為す、故に之を奥と謂い、蔵とは天台云わく「包蘊を蔵と為す」』と云うが如し云云。故に知んぬ、奥蔵とは本門の題目なり。所謂題目の中に万行を包蘊するが故なり。今三大秘法総在の妙法に約する故に『此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵』と云うなり」(御書文段四五五頁)
と解説されている。
このように「本地甚深の奥蔵」とは三大秘法であり、南無妙法蓮華経の五字・七字の意味は到底、簡単に述べられるものではない。しかし、我々が唱える一遍の題目に、一切の意義が篭もっているのである。
その一切を含めたところに妙法蓮華経の深い意義があるから、唱題をすることによって現世安穏・後生善処その他、あらゆる身心充実の功徳が顕れることは当然である。
また、過去以来の謗法罪障の因縁によって様々な間違った欲望や考えを持っている命は、妙法の唱題をすることによってその誤りがだんだんと閉ざされてくるのであり、そのことによって自らの命の清浄がおのずと図られてくるのである。
あらゆる意味から、この妙法を唱えることが一切衆生の成仏の道であり、真に自他を救っていく道である。我々僧俗一同は、常にその実証をもって、しっかり信行に励まなければならない。